承応の鬩牆
概要
発端
紀伊国性応寺の了尊には、月感(肥後国延寿寺)と西吟(豊前国永照寺)という2人の弟子がおり、西吟は本願寺派本山・西本願寺学寮(僧侶の養成機関)の学長職に当たる能化を務めていた。
1653年(承応2年)、月感は西吟の講義を聴いたところ、その内容に自力的・禅的なものが含まれており、他力本願を教義とする浄土真宗にふさわしくないという弾劾状を西本願寺に提出した。これに対して西吟も告訴状を提出し、紛争へ発展した[1]。同年、月感は西本願寺を追われ、東本願寺を頼った。
脚注
- 千葉乗隆「承応の鬩牆」(PDF)
- 北岑大至「大麟『真宗安心正偽編』成立の一考察」
- 森章司「近世における真宗教団ー異安心と妙好人ー」、大倉精神文化研究所『近世の精神生活』続群書類聚完成会刊所収
- 龍谷大学「学舎の370年をたどる」
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