明石覚一
出自
足利尊氏の従弟[注釈 1]で明石を領し、中年まで播磨国(兵庫県)書写山の僧であったが、急に失明し琵琶法師となった。彼は自分の屋敷に当道座を設立して、みずから惣検校となり、明石検校ともよばれた[注釈 2]。江戸時代まで続く検校制度を確立した。当道座は現在洛央小学校となっている。一方(いちかた)流の流祖如一の弟子[注釈 3]、一方流中興の祖と呼ばれる[5]。天皇・上皇・親王らのための御前演奏をおこなうことが多かった。琵琶以外にも按摩(あんま)・鍼灸(しんきゅう)の達人でもあったと伝えられている。
事績
覚一は、当時貴族や武士の間に平曲を弾じて、その至芸ともいうべき演奏は高い評価を受けていた[5]。貞治2年(1363年)にも、覚一が勧進平家を演じた記録が、中原師守の日記である『師守記』の同年正月3日の条に見える。
今日家君密々聴聞五条高倉薬師堂覚一検校平給
なお、「五条高倉薬師堂」は、狂言「因幡堂」で知られる京都市下京区の平等寺のことである。
南北朝時代から室町時代にかけて、平曲をさかんにした貢献には大きいものがある[5]。
「覚一本」『平家物語』の確立
覚一はまた、のちの『平家物語』のスタンダードともいうべき「覚一本」をまとめた[5]。以前よりその傾向はあったものの、「灌頂巻」が『平家物語』より分立したことは、覚一によって決定的なものとなったということができる[5]。「灌頂巻」とは、壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧の日々や侍女の悲恋話の部分である。こんにちの『平家物語』の伝本百数十本のうち、語り本としての「覚一本」系統の諸本は重大な位置を占めており[5][6]、そのなかでも高野辰之旧蔵の高野本(現在東京大学国語研究室所蔵)をもとにしたものが最も流布している。筑後国高良大社所蔵の重要文化財『平家物語』も覚一本である[7][注釈 4]。
脚注
注釈
出典
- 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 10頁。
- 谷口(2019)p.186
- 安徳天皇を祀る「赤間神宮」で『耳なし芳一まつり』 -観光ジャーナル「山口遊遊」
- 杉田黎明『平家物語』
- 藤間(1979)p.40
- 山本(1989)「口承文芸と文字―平家物語の生成」p.162
- 山本(1989)「平家物語の世界」pp.157-159
参考文献
外部リンク
- 「平家詞曲研究室」(前田流平家詞曲相伝 鈴木まどか)