晏殊
経歴
神童と呼ばれ、7歳で文を作った。14歳で宋代最初の童子のための進士の試験を受け、翌年廷試を受けて進士となり、皇帝真宗から秘書省正字に任じられた。明道元年(1032年)、参知政事になった。同年、李宸妃の墓誌銘に関して仁宗の怒りに触れ[1]、亳州知州に降格された。
慶暦2年(1042年)に中央政界に復帰し、宰相になった。しかし慶暦4年(1044年)、李宸妃の一件を契機に再度多くの非難を受け、収賄を理由として潁州知州に降格された。
脚注
- 仁宗の実母の李宸妃の墓誌銘は晏殊の執筆である。仁宗は李宸妃から取り上げられ劉氏(後の章献明粛皇后、皇太后)の子とされたが、晏殊は劉氏を恐れ、李宸妃は一人の公主だけを産んだと記した。
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