木村健康
経歴
福岡県早良郡鳥飼村(現福岡市)に生まれる。1925年福岡県中学修猷館[1]、1928年旧制福岡高等学校文科甲類[2]を経て、1931年、東京帝国大學経済学部を卒業し[3]副手となり、1932年同学部の助手となる。
自由主義派(純理派)の河合栄治郎に師事し、大河内一男、安井琢磨と共に河合門下三羽烏と呼ばれたが、1938年、河合の筆禍から経済学部内での学派対立が激化し、翌1939年、東大総長の平賀譲による裁定(平賀粛学)により休職とされたことに抗議して、山田文雄教授らと共に辞表を提出し辞職。なお、後に大河内と安井は、河合に逆らって辞表を撤回し東大にとどまったため、河合はこの二人を破門しており、木村は河合が最も信頼する門下生となった。
その後、河合は軍の言論弾圧に対して法廷闘争を続けたが、木村は法廷で特別弁護人として河合を弁護し続けている。上智大学専門部、巣鴨高等商業學校、上智大学商経学部の講師を経て、1943年、第一高等学校の教授となり経国(法制経済)を担当する。
1946年1月、東京大学経済学部助教授、1949年5月、同教授に就任し経済学史を担当。1949年6月から1961年まで、新制東京大学に新規に設置された教養学部の教授を兼務し、東大教養学部の基礎を築いた(駒場出身の経済学者である村上泰亮、早坂忠は教養学科第一期生の門下)。1969年4月、成蹊大学経済学部の初代学部長に就任。1969年5月、東京大学名誉教授の称号を受ける。
エピソード
一高教授であった1945年4月、軍は一高のリベラルな自治寮制度を嫌い、文部省に命令して一高を廃学するように指示したが、当時の安倍能成校長を補佐し、木村が中心になって各寮に教授が一人ずつ泊まることによって、教授が管理しているという名目を作って廃学を免れている。
著書
単著
訳書
脚注
- 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員18頁
- 『福岡高等学校一覧 第19年度(自昭和15年4月至昭和16年3月)』(福岡高等学校編、1941年)157頁
- 『東京帝国大学一覧(昭和5年度)』(東京帝国大学、1930年)學生生徒姓名531頁
- 博士論文書誌データベース
参考文献
- 『追想木村健康』, 木村健康先生追想録刊行委員会, 1989年
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