東福寺城
東福寺城(とうふくじじょう)は、鹿児島県鹿児島市清水町(薩摩国鹿児島郡清水馬場町)にあった日本の城(山城)。平安時代に築城され江戸時代の初期に廃城となった。
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|---|---|
| 城郭構造 | 山城 |
| 築城主 | 長谷場永純 |
| 築城年 | 1053年(天喜元年)? |
| 主な城主 | 矢上氏、島津氏 |
| 廃城年 | 1602年(慶長7年) |
| 遺構 | 曲輪 |
| 指定文化財 | なし |
| 再建造物 | なし |
| 位置 | 北緯31度36分28秒 東経130度34分15秒 |
| 地図 |
![]() 東福寺城 ![]() 東福寺城 ![]() 東福寺城 |
現在は多賀山公園として整備されている。
沿革
南北朝の動乱
南北朝時代の動乱は、辺境である薩摩国も巻き込み、薩摩国守護であった島津氏は北朝側、矢上氏は南朝側に立っていた。島津氏は当初薩摩国国府に近い出水を拠点としていたが、やがて薩摩国、大隅国双方ににらみの利く鹿児島に拠点を移そうとした。そこで問題となったのが、南朝側の矢上氏が鹿児島の重要地点・東福寺城に陣取っていたことであった。当時矢上氏は一族の中村高純に東福寺城を守らせていた。
暦応3年(1340年)島津貞久は弟の佐多忠光に東福寺城を攻めさせる。南朝側に立っていた肝付兼重は救援のため高山城から駆けつけ、島津勢を撃退した。
暦応4年(1341年)、島津貞久は再び東福寺城を攻略する。双方に多数の死者が出たと言われるこの合戦で遂に東福寺城は落城し、これ以後島津氏の拠点となった。
現状
現在跡地は多賀山公園となり、「東福寺城跡地」を示す石碑と東郷平八郎の銅像が建っている。
曲輪の形状がよく残っているとされるが、公園としての整備も進んでいるため素人目には中世山城の面影を偲ぶのは難しい。
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