樋口探月
経歴
江戸時代、諸藩の御用絵師たちは江戸に出て、多くが狩野派絵師に弟子入りし学んでいたが、薩摩藩では奥絵師の鍛冶橋狩野家に入門させていた。鍛冶橋狩野家8代当主の狩野探淵(守真)に師事し、23歳で認可を得て、上総、上野、相模などを遊歴する。
明治元年(1868年)宮内省に屏風を納入した。明治3年(1870年)神祇官に出仕、翌年、神祇少録を拝命。明治4年(1871年)の大嘗会豊明節会では悠紀主基屏風を狩野芳信(梅香、金杉片町狩野家)と共に作画する。
明治10年(1877年)に岩倉具視は、廃絶しつつあった維新以前の京都での宮中行事を記録した儀式書の編纂を決定していた。明治13年(1880年)より旧儀式取調を命ぜられ、明治15年(1882年)の内国絵画共進会で褒状を受ける。明治20年(1887年)、儀式次第書『公事録』が完成し、これらの場面を詳細に描いた「公事録附図」(宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)を納入した。
依田學海、八田知紀らとも親交があった。慶応4年(1868年)の京都画壇における如雲社の結成にも関与していたのではないかといわれる [2]。
弟子に五姓田芳柳、狩野探溟(平林探溟)など。また、明治11年(1878年)に短期間、黒田清輝へ日本画の手ほどきをしたという[3][4]。
脚注
- 文政2年(1819年)生説もある。
- 五十嵐公一『如雲社の出発点 京狩野家資料を手掛かりにして』大阪芸術大学紀要、2016年
- UAG美術家研究所「鍛冶橋狩野家に学んだ薩摩の絵師」
- 東京国立博物館「1089ブログ 黒田清輝の気になる作品《七面鳥》」
参考資料
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