橘橋
歴史
九州の南東部で対峙していた飫肥藩、高鍋藩および延岡藩の戦略的都合により江戸時代が終わるまで大淀川下流部には橋がなく、渡し船が唯一の交通手段であった。明治維新後もしばらくの間は橋を架けることが許されず、住民は不便な生活に甘んじていた。これに対して宮崎の医師福島邦成は橋の有用性を説きながら架橋の申請を繰り返し、ついには建設費用を私費でまかなうという条件付きで架橋を許可された。
初代
1873年(明治6年)、福島邦成が中心となり、宮崎の商人久世源一と荒川唯一、鹿児島の商人林次郎らが1500円を出資して橋を完成させた。橋の名称は邦成の称号である橘南を元にしたとの説と開通式の祝詞に由来するとの説がある。一人あたり5厘、馬一頭あたり1銭5厘の通行料を徴収した。完成からわずか数か月で洪水のために流失し、写真などの記録が残っていないことからこの橋の存在を疑問とする見方もある。
2代目
1880年(明治13年)3月に再度着工され1700円の費用をかけ同年4月24日に完成した。長さ381メートル、幅3.9メートルであった。一人あたり4厘、馬一頭あたり1銭2厘の通行料を徴収した。後に洪水のため流失。
4代目
宮崎県が建設にあたり1888年(明治21年)に完成した。部分的な流失はあったものの40年間近くその姿を保った。1927年(昭和2年)8月11日、台風による洪水のために流失した。応急処置として仮橋が設置されており、この仮橋を5代目とする見方もある。
参考文献・外部リンク
- 川島馨編、『橘通100年あれこれ』、宮崎市商店街振興連合会、1989年(平成元年)。
- 橘橋の沿革(国土交通省九州地方整備局)
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