檀道済
檀 道済(たん どうせい、? - 元嘉13年3月8日(436年4月9日))、東晋末から宋初頭にかけての武将。檀韶・檀祗の弟。本貫は高平郡金郷県。宋の建国者である劉裕に仕え、宋の第2代皇帝・少帝の後見になったが、のちにその武名を恐れた文帝によって殺害された。『三十六計』の著者[1][2]。

生涯
決起軍
元興3年(404年)、東晋を滅ぼして自ら皇帝を僭称していた桓玄を討伐するため、劉裕に従い決起し、大いに功績をあげている。義熙12年(416年)には、劉裕の北伐に先方として参戦し、後秦を滅ぼした[3]。そのときの功により、征虜将軍および琅邪内史となる。
興国の元勲
東晋に代わり宋が建国されると、永修県公、南兗州刺史となる。永初3年(422年)、劉裕は檀道済や徐羨之、傅亮、謝晦に後事を託し、死去する。第2代皇帝として少帝が即位したが、徐羨之らと共に少帝を廃し、文帝を擁立する。元嘉元年(424年)、文帝の即位に伴い、征北将軍となる。また、元嘉3年(426年)には、少帝廃立・殺害の罪を問われた謝晦を討伐し、征南大将軍、開府儀同三司、江州刺史となる。なお、檀道済が江州刺史であった頃、野に下った陶潜の才能を惜しみ、仕官を勧めているが拒絶されている。
元嘉8年(431年)1月、檀道済は北伐を実行し、北魏の歴城に到達するも兵糧不足のため撤退する[4]。やがて宋軍の最高職である司空となる。
人物・逸話
北魏への北伐の際、宋軍は歴城まで達するも兵糧不足となり、逃亡者や士気の衰えが出始めていた。やむなく檀道済は撤退を決定するが、宋軍の損失を最小限にとどめるための策を考案した。枡に砂を盛って米のように見せ、また余った兵糧を地面にばら撒き、兵糧が豊富にあるかのように偽装した。これを見た北魏軍は、宋軍の兵糧が尽きていないと思い込んだ。そこで檀道済は宋軍を悠然と退却させたが、北魏軍は伏兵を懼れて追走してこなかった。
『三十六計』の走為上は、南斉書の王敬則伝「敬則曰、『檀公三十六策、走是上計』」と「三十六計逃げるに如かず」の語源である[1][2]。
檀道済の死を知った北魏は「最早宋にはひとりの恐るるに足る者もおらぬ」と喜んだと伝わり[5]、また文帝は元嘉26年(449年)に北魏軍が大軍を率いて南下し都にまで迫った際、北方を臨みながら「ああ、今もし檀道済が生きていたら、胡び馬にここまで攻めてこさせるような事はなかったろうに」と嘆息して述べたと伝わる[3]。