歩大汗薩

歩大汗 薩(ほだいかん さつ、生没年不詳)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人本貫太安郡狄那県、あるいは代郡西部[1][2][3]

経歴

北魏の龍驤将軍・領民別将の歩大汗居の子として生まれた。六鎮の乱が起こると、歩大汗薩は一家を率いて南方に避難し、秀容で爾朱栄に帰順した。建義元年(528年)、爾朱栄の入洛に従い、軍功により揚武軍帳内統軍に任ぜられ、江夏子の爵位を受けた。葛栄の乱の平定に参加し、功績を重ねて、鎮南将軍を加えられた。永安3年(530年)、爾朱栄の死後、爾朱兆の入洛に従い、帳内大都督に任ぜられた。中興2年(532年)、爾朱兆の下で韓陵の戦いに参加し、爾朱兆が敗れると、歩大汗薩は高歓に降った。第三領民酋長となり、秦州鎮城都督・北雍州刺史に累進した。天平元年(534年)、東魏が建国されると、歩大汗薩は東寿陽三泉都督に転じた。元象元年(538年)、行燕州となり、臨川領民大都督に転じ、長広伯の爵位を受けた。柔然への使者として立ち、帰還後に儀同三司となった。五城大都督として出向し、河陽に駐屯した[4][2]武定元年(543年)、高仲密が乱を起こし、宇文泰が洛陽の攻略を図ると、歩大汗薩は劉豊とともに河陽城を守ってこれに抗戦した[5]。車騎大将軍・開府を加えられ、行唐県公に進封された。晋州刺史となり、安陵県男の別封を受け、驃騎大将軍を加えられた。天保元年(550年)、北斉が建国されると、歩大汗薩は義陽郡公に改封された[6][2]。天保3年(552年)、合肥が包囲されると、歩大汗薩は暴顕慕容儼らとともにの北徐州を攻撃し、その刺史の王強を捕らえた[7][8]。天保4年(553年)、郭元建が合肥に派遣されて水軍を運用すると、歩大汗薩は邢杲遠や東方老らとともにこれに合流した[9][10][11]。天保5年(554年)、涇州の救援に派遣された[12]

脚注

  1. 北斉書 1972, p. 278.
  2. 北史 1974, p. 1917.
  3. 『北斉書』歩大汗薩伝は「太安狄那人」とし、『北史』歩大汗薩伝は「代郡西部人」としている。
  4. 北斉書 1972, pp. 278–279.
  5. 北斉書 1972, p. 220.
  6. 北斉書 1972, p. 279.
  7. 北斉書 1972, p. 536.
  8. 北史 1974, pp. 1924–1925.
  9. 梁書 1973, p. 133.
  10. 梁書 1973, p. 630.
  11. 南史 1975, p. 240.
  12. 梁書 1973, p. 134.

伝記資料

参考文献

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
  • 『梁書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00311-7。
  • 『南史』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00317-6。
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