津軽薫
生涯
弘前藩御城代津軽右近の長男として生まれる。本家津軽直記に子がなかったためその後をつぐ[2]。
1870年、旧藩主による土地分与では田舎舘に土地をあたえられたものの帰農せず、特別の計らいで紺屋町九十番戸に屋敷をもらい、そこで果樹栽培をおこなう[2]。
リンゴ、ブドウ、スグリ、ハタンキョウ(アーモンド)を栽培し、また、除虫菊を栽培してのみ取粉を製造・販売していたこともあるといわれている。津軽承昭は薫の精励ぶりを評価して綴玉園と命名したものの、明治30年代初期の害虫の蔓延で被害をうけ屋敷を売却する。木洗いという徹底した駆除法を実施できなかった士族屋敷のリンゴは大方このとき姿をけしてしまったといわれている[2]。
その後、高照神社の社掌となり、百沢で生涯をとじる。リンゴの大猩々は薫のところで初成りしたものといわれ、「津軽中大猩々の名は薫る」という句が証拠となっている[3]。
脚注
- 『りんごを拓いた人々』 47頁。
- 『りんごを拓いた人々』 51頁。
- 『りんごを拓いた人々』 51-52頁。
参考文献
- 斉藤康司 著、神田健策編 編『りんごを拓いた人々』菊池卓郎監修(初版)、筑波書房(原著1996年3月4日)。ISBN 9784811901404。
関連項目
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