片岡直季

片岡 直季(かたおか なおすえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将片岡光綱の弟。土佐国吾川郡上八川の領主。

 
凡例
片岡 直季
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文13年(1544年
死没 天正15年(1587年
官位 紀伊守[1]
主君 片岡茂光(直光)、光綱、光政
氏族 片岡氏
父母 父:片岡茂光、または直光
母:長宗我部兼序の娘
兄弟 光綱、直近、直政、直春、直季、三宮右衛門尉室、森近江守室[2]
山内丹後守の娘[3]
直忠、直春、直賢、直正[4]

生涯

天文13年(1544年[5]、土佐国高吾北の有力国人・片岡茂光(または片岡直光[6][7])の子として生まれる[8]。母は側室である長宗我部国親の妹[9][注釈 1]

永禄2年(1559年)、直季を総大将とする片岡氏の軍が和田美濃守(は義高[11]、または晴長[12])の拠る上八川を攻め、これを攻略した[13]。この時、長宗我部氏麾下の西野内綱茂から援軍を受けている[14]。和田氏の居城・程野城(上八川城)は重臣たちの寝返りもあって落城し、城主・和田美濃守は山中に逃れた後に自害したという[13]。美濃守の最期については、戦場で首を取られたものの子によって奪い返されたとの話もある[15]。この後、上八川は直季が領主となって治め、直季は神社仏閣の再建や建立を行い、水田の開発を進めるなどしている[16]

天正13年(1585年)7月、兄・光綱が金子城で戦死し(天正の陣[17]、天正14年(1586年)12月、光綱の跡を継いだ養嗣子・光政も戸次川の戦いで討死した[18]。この翌年の天正15年(1587年)、直季は病のため死去した[19]

子孫

直季の子のうち、四男・八兵衛直正が上八川片岡氏を継いだ[20]。直正の跡は養子の祐光が継ぎ、祐光は上八川村の庄屋となる[21]。祐光の子の祐直は高岡郡半山郷の大庄屋に任じられ、その地に移住した[21]。祐直の子孫に、第1次若槻内閣大蔵大臣を務めた片岡直温がいる[22]

脚注

注釈

  1. 兄・光綱らは正室・山本氏の子で、直春と直季の2人が国親の妹の子という[10]

出典

  1. 吾北村 1977, pp. 162–163.
  2. 吾北村 1977, p. 191.
  3. 吾北村 1977, p. 181.
  4. 吾北村 1977, pp. 191, 229.
  5. 永禄2年(1559年)の時点で16歳とされることによる (吾北村 1977, pp. 174, 179)
  6. 越知町史編纂委員会 1984, p. 293, 「土佐遺語」による系譜.
  7. 山本大 著「長宗我部氏家臣団人名事典」、山本大 編『長宗我部元親のすべて』新人物往来社、1989年、189–190頁。ISBN 4-404-01624-7。「片岡光綱」の項。
  8. 吾北村 1977, pp. 172, 191; 越知町史編纂委員会 1984, p. 268.
  9. 吾北村 1977, p. 172; 越知町史編纂委員会 1984, p. 268.
  10. 越知町史編纂委員会 1984, p. 268.
  11. 吾北村 1977, pp. 159–161; 越知町史編纂委員会 1984, p. 272.
  12. 越知町史編纂委員会 1984, p. 270.
  13. 吾北村 1977, pp. 174–179; 越知町史編纂委員会 1984, pp. 270–271.
  14. 吾北村 1977, p. 173.
  15. 越知町史編纂委員会 1984, p. 271.
  16. 吾北村 1977, pp. 181–183.
  17. 吾北村 1977, p. 198; 越知町史編纂委員会 1984, p. 286.
  18. 吾北村 1977, pp. 210–217; 越知町史編纂委員会 1984, p. 289.
  19. 吾北村 1977, p. 229.
  20. 吾北村 1977, p. 230.
  21. 吾北村 1977, p. 243.
  22. 吾北村 1977, pp. 116–117, 162–163.

参考文献

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