牛尾幸清
牛尾 幸清(うしお よしきよ)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。尼子十旗の一角である出雲国牛尾城主。
凡例 牛尾幸清 | |
|---|---|
| 時代 | 戦国時代 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 不明 |
| 改名 | 湯原幸清→牛尾幸清 |
| 別名 | 重則、常清、次郎左衛門尉 |
| 官位 | 遠江守(受領名) |
| 主君 | 尼子経久→晴久→義久→毛利元就→輝元 |
| 氏族 | 湯原氏→牛尾氏 |
| 父母 | 父:湯原某 |
| 兄弟 | 幸清、久晴 |
| 子 | 久信、幸晴、幸信(弾正忠)、隣西堂、甚次郎 |
生涯
経久時代
尼子経久の時代から家老として家中でも重きを成した。佐世清宗・川副久盛等の奉行衆と並び、尼子氏発給文書への連署も多い。出雲内では、大原郡牛尾荘[2]を支配していた。
永正8年(1511年)、大内義興の上洛の際、経久と共に大内軍に参加して上洛し、三好氏と戦った(船岡山合戦)。尼子氏の主な合戦はほとんど参陣したという。
その他
元来幸清の名乗り姓は湯原であり、牛尾氏出身ではない。これは天文8年(1539年)に播磨国に出兵した尼子軍が法光寺(兵庫県三木市吉川町)に与えた禁制に署名する「湯原次郎左衛門尉」の花押と、後の牛尾幸清の花押とが同一形状であることによって証明されている[1]。牛尾氏は経久時代には河津氏が治めていたが、天文10年(1541年)の第一次月山富田城の戦いで河津氏は大内側に寝返ったとして討伐され滅亡した。後に有力家臣であった幸清が牛尾惣領となったのである。
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