王印川
王 印川(おう いんせん)は清末民初の政治家。北京政府では安徽派などに属し、国民政府成立後も中ソ交渉などに携わった人物である。字は月波。号は空海。
| 王印川 | |
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| プロフィール | |
| 出生: | 1878年(清光緒5年) |
| 死去: | 1940年(民国28年) |
| 出身地: |
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| 職業: | 政治家 |
| 各種表記 | |
| 繁体字: | 王印川 |
| 簡体字: | 王印川 |
| 拼音: | Wáng Yìnchuāng |
| ラテン字: | Wang Yin-ch'uang |
| 和名表記: | おう いんせん |
| 発音転記: | ワン インチュアン |
事績
清末民初の活動
1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となる。後に日本に留学し、早稲田大学、中央大学で学び法学士の称号を得た。[1]1911年に帰国すると河南高等学堂教務長に任ぜられたが、まもなく河南独立を謀り、事が漏れて上海に逃れた。上海では『民立報』の編輯となっている。[2][3]
中華民国成立後の1912年(民国元年)初めに、統一党の幹事に選ばれ、まもなく副総理とされた。同年5月、統一党が民社などと合併して共和党が結成されると、王印川はここでも幹事となる。翌1913年(民国2年)、衆議院議員に当選する。同年5月、進歩党が結成されると、王は同党理事に選出された。[4]その後、憲法起草委員、政治会議議員、約法会議議員を歴任する。1914年(民国3年)5月、参政院参政に任ぜられ、北京『黄鐘日報』を主宰した。[2][3]
安徽派、奉天派での活動
1916年(民国5年)、袁世凱死後に復活した国会で衆議院秘書長を務めた。1918年(民国7年)、安徽派を支持する安福倶楽部に加入し、同党評議会副会長となっている。同年9月、安福国会で衆議院議員に選出され、同院秘書長に再任された。1920年(民国9年)2月、署理河南省省長に任ぜられる。7月、安徽派が安直戦争で敗北すると、安徽派に与していた王印川も下野した。[2][3]
1924年(民国13年)、王印川は奉天派指導者・張作霖の顧問となる。翌年7月、段祺瑞の執政政府で臨時参政院参政に任ぜられた。1927年(民国15年)、張作霖が大元帥になると、王は河南招撫使に任ぜられる。北京政府が崩壊すると、王は下野、大連に閑居した。[2][3]
著作
- 『蘇俄考察記』
- 『蘇俄五年計劃奮鬥成功史』
注
- 徐主編(2007)、83頁によると、早稲田大学で法学士を取得した、としている。しかし劉主編(2005)、148頁によると、早稲田大学で経済を学んだ後、中央大学で法学士を取得した、としている。どちらが正しいかは不明。
- 徐主編(2007)、83頁。
- 劉主編(2005)、148頁。
- 謝(1924)、42頁、49頁、54頁。
参考文献
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