王含
生涯
凶暴で非行が多かったと伝わる。王敦の出世に伴って出世し、荊州刺史・征東大将軍・都督揚州江西諸軍事になる。永昌元年(322年)に王敦が東晋に対して反乱を起こすと同調し、驃騎大将軍・開府儀同三司となった。
太寧2年(324年)、明帝が王敦を討伐するべく兵を出した。この際、王敦は重病に倒れていたため、代理として王含が元帥となり、7月に5万の軍勢を率いて首都建康に迫った[2]。しかし明帝は自ら諸軍を率いて親征し、1000人の兵を王含軍の陣に夜襲したため、王含は敗北した[2]。この時、王敦は敗報を聞いて「兄は老いぼれ下女のように役立たずだ」と憤慨して自ら陣頭に立とうとしたが、間もなく失意の内に死んだ[2]。このため王含は陣営を焼いて夜中に逃走。荊州にいた従弟の王舒(叔父王会の子)の下に走ったが、長江に沈められて溺死した。
脚注
- 『世説新語』人名譜より。
- 駒田 & 常石 1997, p. 90.
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ウィキソースには、『宣室志』第8巻の原文があります。
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