王禎 (北魏)
王 禎(おう てい、476年 - 514年)は、中国漢王朝の武帝が紀元前108年に朝鮮半島に設置した植民地・楽浪郡で勢力を張った中国系豪族・楽浪王氏出身の北魏官僚[1]。官位は「員外散騎侍郎」。字は「宗慶」。514年4月10日、洛陽永康里で死亡。前燕の「儀同三司 武邑公」を務めた王波の六世の子孫[1][2]。
| 王 禎 | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| 漢字: | 王 禎 |
| 発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
| 日本語読み: | おう てい |
人物
1929年、王禎の墓誌が洛陽護駕荘から出土しており、墓誌は西安碑林博物館が保管している[1]。
高祖父・王班(王礼班)は、後燕の「散騎常侍」「平西将軍」「給事黄門侍郞」「晋陽侯」を務めた[3][2]。曾祖父・王定国は、北魏の「庫部給事」「冠軍将軍」「河内太守」「幷州刺史」「博平男」を務めた[3][2]。祖父・王唐成は、北魏の「広武将軍」「東宮侍郞」「合肥子」を務めた[3][2]。父・王光祖は、北魏の「寧遠将軍」「徐州長史」「淮陽太守」「司州中正」「晋陽男」を務めた[3][2]。
北魏・西魏の政治家である宇文泰の母親・明徳皇后と兄の王盟は楽浪王氏であるが、王禎の六世の祖・王波と祖を同じくするため、明徳皇后、王盟、王禎は同じ家門、親族である[1]。王禎一族は、代々北魏から爵位を与えられた官職従事者であり、北魏皇室とも婚姻を結ぶことができた名家だった[1]。
六世の祖・王波は、前燕の「儀同三司 武邑公」を務めているため、一族は楽浪郡滅亡前後に朝鮮から中国に移住している[4]。
王禎の墓誌は、一族が中国殷王朝の政治家・箕子の後裔であることが記されている。すなわち、殷王朝に箕子、比干、微子啓の三人の忠臣がおり、中国周王朝の武王が箕子を朝鮮に封じたために姓を王氏とした、と記録されている[1][4]。
脚注
- “왕정묘지명(王禎墓誌銘)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月26日時点におけるアーカイブ。
- 羅新『王化与山険:中古辺裔論集』北京大学出版社、2019年7月1日、435-439頁。ISBN 978-7301305836。
- 『中華文史論叢』上海古籍出版社〈第84輯〉、2006年12月、136頁。
- “왕기묘지명(王基墓誌銘)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月27日時点におけるアーカイブ。
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