盛久寺 (恵那市)
東巌山 盛久寺(せいきゅうじ)は、岐阜県恵那市山岡町馬場山田にある曹洞宗の寺院。
| 盛久寺 | |
|---|---|
| 所在地 | 岐阜県恵那市山岡町馬場山田968 |
| 位置 | 北緯35度21分23.14秒 東経137度24分28.84秒 |
| 山号 | 東巌山 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 本尊 | 如意輪観音 |
| 創建年 | 慶長2年(1597年) |
| 開山 | 體巌雲恕 |
| 開基 | 後藤新右エ門 |
| 中興 | 自回厳道 |
| 法人番号 | 7200005009472 |
山号は東巌山。本尊は如意輪観音。
歴史
諸国遍歴中の三河宝飯郡の僧、石室善玖(全玖)が、当地の穏やかな佇まいを愛し、現在の盛久寺の辺りに白雲庵を結んだのは、戦国時代の末期で戦火も収まった頃であった。
当時、恵那郡の寺社は、天正2年(1574年)の武田勝頼による東濃侵攻による戦火で悉く焼失し、仏の教えを受けるためには、岩村盛巌寺の體巌雲恕を訪ねるしかなかった。
この白雲庵の下に屋敷を持っていた豪農の後藤新右エ門[1]は信仰心が厚く、村に一寺も無くなったことを悲しみ、寺の建立を以前から考えていたので、石室善玖(全玖)を開山として白雲庵を寺とするように願った。
石室善玖(全玖)は、師の體巌雲恕に開山となることを依頼し、この三人の協力によって
六世の快信祖慶
六世の快信祖慶は、山田村和田の出身である。
堂宇の腐朽を悲しんで修復と再建を行った。大殿の修理、庫裡の移転、衆寮や山門の建築等を行い、
貞享4年(1687年)には梵鐘の鋳造を行った。治工は名古屋の水野庄左エ門で、鐘の大きさは、周囲7尺2寸、直径2尺3寸8分、厚さ2寸3分であった。
十二世の自回厳道
十二世の自回厳道は、天明4年(1784年)には庫裡を造り、寛政6年(1794年)には衆寮禅堂を立て直し、土地の購入などもして寺運を盛にしたので重興と贈名された。
久保原村の林昌寺を平僧地から法地に昇格させて、自ら法地一世となり、土岐郡細野村に福昌寺[3]を開山した。
自回厳道の頃には、田畑27石余、山林9ヶ所、藪1ヶ所を持ち、大殿を始めとして寺の建物は次の通りの盛大さであった。
- 大殿 享保13年(1728年)に再建、四方附け下げの間口八間に奥行五間四尺、前に二間半に三尺の向拝が付き、後に二間に三間半の御影堂と三間五尺に二間の方丈。
- 庫裡 天明4年(1784年)の再建で、四方附け下げの十間三尺に五間。外に大殿への渡りが、二間二尺四方。
- 衆寮と禅堂 寛政6年(1794年)の再建で、裏側の附け下げ共に、九間に二間四尺。
- 山門 二間半に二間
- 惣門 九尺に七尺五寸、両側に一間づつの高塀
- 浄頭 一間に五尺
- 浴室 二間半に一間半
- 長屋 五間に二間
- 物置 二間半に二間
- 薪部屋 七間に一間一尺
- 灰屋 三間に二間
臥龍梅
境内には盛久寺を開山した體巌雲恕が手植した樹齢が四百数十年余の梅の木があり、その形容から臥龍梅と呼ばれている。
中国から渡来した丹犀種という八重咲の紅梅である。
明治初年に仏教学者の大内青巒が盛久寺に立寄った時に、臥龍梅の素晴らしさを讃えた五言絶句の掛軸が保管されている。
平成7年(1995年)に損傷が激しくなったため、恵那市長島町の「芳華園」主で造園樹木医の村上助九郎に依頼し保護施行が完了した。
伝説
盛久寺は元は釜井の高台西端にあったが、火災に遭って現在地へ移転してきたという伝説がある。
釜井にあった寺は釜井館の領主の菩提寺で、館と共に戦火に焼かれて滅亡したのであって、直接盛久寺と関係があったわけではない。
本寺
- 盛巌寺 (恵那市岩村町)
末寺
脚注
- 飯高山 萬勝寺の復興にも尽力した。
- 年代から推察すると丹羽氏音と考えられる。
- 昭和36年(1961年)に正宗寺と合併し、正福寺となった。
- 昭和36年(1961年)に福昌寺と合併し、正福寺となった。
参考文献
- 『山岡町史 通史編』 第九章 宗教 第三節 禅宗寺院 盛久寺 p630~p633 山岡町誌編纂委員会 1989年
- 『恵那郡史』 第六篇 戦国時代 第二十六章 禅宗の興隆 【曹洞宗】 p200~p202 恵那郡教育会 1926年
- 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年