石山城・今堅田城の戦い
石山城・今堅田城の戦い(いしやまじょう・いまかたたじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月に織田信長と室町幕府の将軍・足利義昭のとの間で行われた戦い。
| 石山城・今堅田城の戦い | |
|---|---|
| 戦争:戦国時代 | |
| 年月日:元亀4年(1573年)2月 | |
| 場所:石山城(大津市石山町) 今堅田城(大津市堅田町) | |
| 結果:織田軍の勝利 | |
| 交戦勢力 | |
| 織田軍 | 室町幕府軍 |
| 指導者・指揮官 | |
| 柴田勝家、明智光秀 丹羽長秀、蜂屋頼隆 |
山岡景友(光浄院暹慶)、磯谷久次 渡辺昌、山本対馬守、伊賀衆、甲賀衆 |
| 戦力 | |
| 30,000(諸説あり) | 4,000(諸説あり) |
| 損害 | |
| 不明 | 死者500人、負傷者1,000余人 |
経過
元亀4年(1573年)2月、将軍・足利義昭は織田信長に対して、二条御所で挙兵した。
同月中旬、義昭は石山や今堅田など志賀郡・高島郡、北山城の国衆らを、反信長として立ち上がらせようとした[1]。そして、山岡景友(光浄院暹慶)、磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)、山本対馬守らがこれに応じ、 石山・今堅田に兵を入れ、義昭方として挙兵した[2][3]。『兼見卿記』2月6日条には、「岩倉山本・渡辺・磯貝、明智に対して別心と云々」と記されており、明智光秀の麾下の者たちの離反であったことが窺える[2]。
2月20日、信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆ら四将を派遣した[1]。
2月24日、織田軍は勢田から琵琶湖を渡り、石山城に攻撃をかけた[4]。石山城の守備隊には山岡景友が率いる伊賀衆・甲賀衆が在番していたが、26日に降伏して退却、四将は城を破却した[4][5]。
2月29日、織田軍は湖上に面した今堅田城を攻撃した[4]。午前8時ごろから明智光秀が東(琵琶湖上)から兵船を利用して、湖上から攻めあがった[4][5]。光秀は湖上における制海権も掌握していた[4]。丹羽・蜂屋は南東からそれぞれ攻めかかり、正午ごろに明智隊が城に突入し、勝利した[5]。
光秀は今堅田を平定後、そのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した[4][5][6]。
この戦いで、義昭側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされる。一方、光秀は家臣18人がこの戦いで戦死しており、決して小規模な戦闘ではなかったことが窺える[4]。また、この戦いでは、義昭方に浅井氏・朝倉氏の援軍はなかった[1]。
脚注
- 谷口克広 2006, p. 121.
- 諏訪勝則 2019, p. 58.
- 黒嶋敏 2020, p. 179.
- 諏訪勝則 2019, p. 59.
- 小和田哲男 2019, p. 126.
- 『信長公記 巻6』