福田健二

福田 健二(ふくだ けんじ、1977年10月21日 - )は、愛媛県新居浜市出身の元サッカー選手。ポジションはフォワード(FW)

福田 健二
名前
愛称 フク[1]
カタカナ フクダ ケンジ
ラテン文字 FUKUDA Kenji
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1977-10-21) 1977年10月21日(46歳)
出身地 愛媛県新居浜市[2]
身長 179cm
体重 73kg
選手情報
ポジション FW
利き足 左足[3][4]
ユース
1984-1989 蔵波FC
1990-1992 市川カネヅカSC
1993-1996 習志野市立習志野高等学校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1996-2001 日本の旗 名古屋グランパスエイト 114 (37)
2001-2003 日本の旗 FC東京 32 (03)
2003-2007 日本の旗 ベガルタ仙台 10 (00)
2004 パラグアイの旗 グアラニー (loan) 36 (10)
2005 メキシコの旗 パチューカ (loan) 21 (12)
2005 メキシコの旗 イラプアト (loan) 19 (10)
2006 スペインの旗 カステリョン (loan) 17 (02)
2006-2007 スペインの旗 ヌマンシア (loan) 39 (10)
2007-2008 スペインの旗 ラス・パルマス 15 (03)
2008-2009 ギリシャの旗 イオニコス 24 (09)
2009-2012 日本の旗 愛媛FC 65 (08)
2013-2016 香港の旗 夢想駿其[注 1] 58 (30)
代表歴
1996-1997  日本 U-19/20
1998-1999  日本 U-21/22
2001 日本の旗 日本 0 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年5月7日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj
福田 健二

来歴

プロ入り以前

小学2年生の時に兄の影響でサッカーを始めた[5][6][1]。両親の離婚により母子家庭に育ち、5年生の時に母が生活苦から自殺するという少年時代を過ごした[7]

父に引き取られて千葉県袖ケ浦市へ転居した後も金銭的な問題からサッカーを諦めかけたが、同級生で同じサッカークラブに所属していた廣山望[3]ら友人たちの助けもあって[8] 中学でもサッカーを続け、1992年のU-15クラブ選手権で全国3位の成績を残した[9]Jリーグ開幕前だったこともあり[5]、中学卒業時にはサッカーのためにブラジルへの移住を考えるなど[8][2]当時から海外志向を持っていた。

1993年習志野高校に進学。本田裕一郎監督からゴールへの執念を買われて、1年時から1軍入りし[10]1994年高円宮杯で3位、1995年高校総体で優勝[2]。同期には廣山を始め、小田島隆幸西脇徹也 (en) 御厨景桜井啓らがいた。

名古屋 / 東京 / 仙台

1996年に高校を卒業し、Jリーグ名古屋グランパスエイトに加入。「日本人ストライカーを育てたい」と語るアーセン・ベンゲル監督の下[11]、同年3月のスーパーカップで先発出場し、デビュー戦で1得点1アシストを記録した[12][11]1997年U-20日本代表としてワールドユース出場。名古屋ではストイコビッチと好連携を築き1998年には公式戦18得点(リーグ戦ではチーム得点王となる16得点[13])を記録。Jリーグで結果を残したことで海外移籍につながると考えていたが、移籍金や契約期間の関係で[6][2]不調に終わり、翌1999年のシーズン終了後の移籍も叶わなかった[2]フィリップ・トルシエ監督率いるシドニーオリンピックを目指す日本代表に招集され、アジア予選では平瀬とともにレギュラー格として出場を続けていたが[14]、平瀬が得点を量産するのに対しなかなか得点ができず、スランプだった柳沢が復調してきた事や、ひとつ下のワールドユース組のエース高原がFW争いに加わり、出番が減っていった。トルシエからは「クラブでレギュラーを取らなければ代表でも呼べない」と発破をかけられるが、呂比須ワグナーウェズレイとのレギュラー争いに勝てずベンチ要員となると、シドニー五輪本大会のメンバーから外れた。

名古屋でも、恵まれたJリーグの環境に居心地の悪さを感じる中で[15][16] 徐々に結果を残せなくなり[6]、呂比須とウェズレイがレギュラーに定着したことで[14]十数分間出場してヘディングで競り合うだけ[17] という状況になり、2001年ストイコビッチの現役引退と同じタイミング[15]退団した。

この際、ベルギー・REムスクロンからオファーを受けていたが、代理人からの説得を受けて[18] 2001年8月、FC東京へ完全移籍[19][20]。しかし東京では、1トップアマラオが入る布陣が採用されていた[注 2] ため[14][21]、福田は左サイドハーフ(SH)という不慣れなポジション[1] に配された[14][17]。同年9月、トルシエ率いるA代表候補に選出[22]2002年は監督交代の影響もあって先発から外れていたが、練習に打ち込む真摯な姿勢は若手選手から慕われ[23][24]同年J1・2nd第14節浦和戦のVゴールなど印象に残るプレーでサポーターから愛された[24][25]。同年12月、チームが天皇杯を控える中、ムスクロンへ短期留学[26]。翌2003年より東京に復帰したが、チーム事情よりも自身の希望を優先したために[18]ポジション争いの序列からさらに後退してしまった[14]

同年8月、負傷したマルコスに代わる攻撃の核を求めていた[14]ベガルタ仙台から熱烈なオファーを受け[24]、仙台へ完全移籍[27]。しかし先発出場の機会は少なく、同年チームはJ2に降格した。

パラグアイ / メキシコ

2003年夏、海外リーグで経験を積んでいた旧友の廣山から代理人を紹介され[2][6]2004年より仙台からリーガ・パラグアージャパラグアイ1部リーグ)のクラブ・グアラニーへ半年間の期限付き移籍[28]。リーグ第2節のソル・デ・アメリカ (en) 戦で高い打点のヘディングから移籍後初ゴールを記録した[29]。外国籍選手として結果を求められることによってプレーの迷いが消え[30]、激しいボティコンタクトを厭わず[29]、パラグアイ人選手に比べると優れたスピードも活きて[29]得点を量産。コパ・リベルタドーレスでも活躍し、契約延長を勝ち取った[29][31]。この時のチームメートであるアウレリアーノ・トーレスとは互いに成長を誓い合い、後にスペインでの対戦を果たしている[32][33]セロ・ポルテーニョヘラルド・マルティーノ監督からの移籍オファー[34] を固辞した際には、グアラニーサポーターから「お前を愛している」と横断幕を掲げられた[21]

2005年プリメーラ・ディビシオンメキシコ1部リーグ)[注 3]CFパチューカへ期限付き移籍[37]。当初はリザーブチーム(2部リーグ)のパチューカ・ジュニアーズに登録されたが[36][3]、標高2400mの高地にも順応し[38][39][21]、出だしから好調なプレーで[40][41] クラブからの信頼を得ると[38]、コパ・リベルタドーレスではトップチームに入りハレド・ボルヘッティを押しのけて出場した[36][21]

シーズン途中にはメキシコ2部のイラプアトFCに引き抜かれ[36][42]、同クラブでも二桁得点を記録。この頃、前述の幼少期の来歴がスポーツ誌で紹介されたこともあり、日本での注目が俄かに高まった。

スペイン / ギリシャ

2006年1月、セグンダ・ディビシオンスペイン2部リーグ)のCDカステリョンへ期限付き移籍[43]。パラグアイ及びメキシコでの実績、グアラニ在籍時の監督であるマリオ・ハケからの推薦[注 4]スペイン語が話せる点ペペ・モレ (en) 監督[注 4]に評価されての移籍だった[45]。しかし、シーズン途中加入だったため[注 5] ポジション争いから始まり、左サイドに配されたこともあって力を発揮できずに終わった[44]

スペイン2部・CDヌマンシアゴイコエチェア監督はカステリョン戦において、福田の激しい形相でボールを追いゴールを狙う姿を目に留めており、2006年8月に福田を練習に呼び寄せた[46]。福田は練習参加した数日間、持ち前の闘争心を発揮してアピールに成功[46][4]。移籍期間末日の同月31日にヌマンシアへの期限付き移籍が決定した[47]。序盤は1トップにFWボロが配されていたため福田はその控えとなっており、前シーズン不振だった「アジア人[注 6]」アタッカーに対してメディアやサポーターからの批判が集中していたが[48]、後にボロと福田の2トップへ変更。これによって福田は古巣カステリョン戦で移籍後初得点を挙げ、主力として定着。同年末、シーズン終了までの契約延長を掴んだ[51][注 5]。ホームゲームでの得点の多さでサポーターの心を掴み[52]、ボロと並ぶチーム得点王となって地元メディアから年間最優秀選手に選出された[53][30]。ヌマンシアは福田との翌シーズン以降の契約に動いたが、保有権は未だベガルタ仙台にあり[54][4][55] 折衝は中々進まなかった[56]

福田は仙台に対し、東京からの移籍後わずか半年での海外移籍を認めたことへの恩義を感じており[56][54]、仙台復帰を選択肢に入れていたが、メディカルチェックで足首負傷[54]の未完治が認められたことから即戦力にはならないと判断され[56]破談。2007年8月、スペイン2部のUDラス・パルマスへ完全移籍[57]。しかしラス・パルマスでは負傷が続き[30]、負傷離脱中に就任した新監督から冷遇されたため[58] 3得点に留まった。

2008-09シーズンは、ベータ・エスニキギリシャ2部リーグ)のイオニコスFCへ移籍。開幕からの6試合で3得点を挙げ、靭帯損傷による3ヶ月の欠場がありながらも[59] 24試合出場9得点と上々の成績を記録。翌シーズンもイオニコスでプレーする予定でいたが[60]、クラブの給与未払いにより[39] 1年限りで契約を解除した[61]

イオニコスを離れた後、UAE1部アル・アインFC[62]フランス1部USブローニュにテスト生として練習に参加したものの[39]契約に至らず無所属となっていた。

愛媛FC

2009年9月[63]、予てから移籍を打診されていたという[64] 故郷・愛媛県のJリーグクラブ愛媛FCと契約締結。10月に加入が発表され[65]、実に6年ぶりの日本復帰となった。なお、この時既にJリーグの選手登録期限を過ぎていたため[66]、同年の公式戦出場は不可[39]

2010年は前所属クラブであるイオニコスが移籍証明書の発行を拒否したために開幕戦への選手登録が叶わず[63]、已む無くFIFA承認の下での暫定登録という措置を取り[67] 第2節以降の出場が可能となった。サッカー人生初となる主将を任され[68]、巧みなポストプレー[69] 相手DFを引き付ける潰れ役として貢献し[70]、チーム最多の7得点を記録した[71]。しかし2011年2012年と徐々に出場機会を減らしていき、2012年限りで契約満了により退団[72]

香港

愛媛在籍時のダービーマッチでの対戦を機に親交を持ったペ・スンジン(2012年より横浜FCに在籍)から横浜FC香港(後に改称[注 1])がFWを探していると聞かされ[73]2013年1月に香港甲組(1部リーグ)の同クラブへ完全移籍[74][75]。2012-13シーズン終了までの4ヶ月契約だった[73]。同年、JFA・B級ライセンス取得[76]。香港では前年より加入していたFW吉武剛との共存を求められ、トップ下でチャンスメイクにも励んだ[77]。シーズン最終節では、試合終了間際になってチームを2部降格の危機から救う劇的な同点ゴール[注 7]を挙げ[79]、チームの1部残留と自身の契約延長を掴んだ[73]

前述の活躍によって2013-2014シーズンは福田を主力とする布陣に変わり、リーグ戦18試合11得点を挙げ、得点ランキング3位でシーズンを終えた。2015年1月、大埔足球会戦でハットトリック達成[80]。2015-2016シーズン終了とともに現役引退を表明[81]、今後は指導者を目指すとしている[82]

引退後

2016年7月、横浜FCの強化ダイレクターに就任した。

2021年4月9日、横浜FCのテクニカルダイレクターに就任した[83]

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

エピソード

  • 母が自殺した際に残した遺書に、兄には長いメッセージが書かれていたのに対し、自分には一言しか書かれておらずショックを受け、それをずっと疑問に抱えてきた事を、2008年の情熱大陸にて語っている。
  • 天然キャラ。本人は自覚に無いそうだが[5]矢部次郎(名古屋)[84]佐藤由紀彦(東京)[85]大木勉(愛媛)[5]など、かつてのチームメートの見解は一致している。
  • 名古屋ではドラガン・ストイコビッチの勝利への執着心に刺激を受け、その姿勢を学びとろうと片言の英語を使って話しかけている[15]。英語は元々好きだったが[86]「ストイコビッチと少しでも会話がしたくて[15]」熱心に英語のレッスンを受けたという。二人の話題はコソボ紛争にも及び、1999年3月27日の「名古屋vsヴィッセル神戸」において福田がストイコビッチのアシストから決勝点を挙げた際[87][88]、ストイコビッチは「NATO STOP STRIKES」とメッセージを示したが、福田もすぐさま駆け寄ってこのメッセージが書かれたシャツを指差し、共にアピールした。ストイコビッチの去就は、福田が名古屋退団を考える切っ掛けの一つとなった[15][21]
  • 2002年J1・2nd第14節「FC東京vs浦和レッズ東京スタジアム)」では両者無得点のまま延長戦に入り、途中出場の福田がVゴールを挙げた[89]。この得点はこぼれ玉を押し込んだだけ[90] というものだったが、福田は喜びを爆発させて上半身裸になり、ゴール裏のスタンドをよじ登ろうとした[25]。この時、スタンドとピッチの間にある溝に落下してしまい、場内は一時騒然としたが[90]、東京サポーターがスタンド壁面に掲げていた横断幕が偶然にも防護マット代わりとなったおかげで大事には至らなかった[25][90]。劇的勝利の立役者であることに加え、苦闘を続けていた福田の喜び様は、多くのサポーターに強い印象を残した[25][90][21]。なお、同会場ではこれ以後、転落防止ネットが張られている[90]
  • パラグアイはスペイン語圏であり、2003年時点の福田の語学力は「知っていた言葉はグラシアスオラくらい[35]」という状態だったが、通訳無しで渡ったため[86]、会う人会う人にとにかく挨拶をすること[6]がコミュニケーションの一歩目となった[35]。辞書で調べながら自身が載っている新聞記事を読み[91][86]、チームメートが行うテレレを回し飲みしながらの歓談にも欠かさず参加[35]。半年程でスペイン語でのインタビューをこなすようになり[91]、1年程でプレーに支障が出ない程度に成熟させた[86]。メキシコもスペイン語が公用語であったためパラグアイでの経験が活かされ、スペインへの移籍の際も有利に働いた[45]。とはいえ、スペインではパラグアイやメキシコで用いたものとは異義の単語も少なくなく[91]、当初は南米仕込みの発音をからかわれていた[38]。福田によれば、スペイン人はとにかくお喋りが大好きで、敵地への遠征中もサッカーに関係ない話題を含めて終始喋ってばかりいるため、もし日本から直接渡西していたら苦しかっただろうとのこと[86][38]。愛媛FCのイヴィッツァ・バルバリッチ監督(スペインでのプレー経験が長かった)とも通訳を介さず対話した[92]。香港では漢字の筆談を使って親交を築いている[93]

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1996名古屋-J40201070
1997181958110286
1998331640324018
1999J1241031423113
20002646020344
200198230-112
FC東京111-10121
20022127300285
20030000-00
仙台34100-10110
パラグアイ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2004 (en) グアラニー20プリメーラ36103610
メキシコ リーグ戦 コパMXオープン杯 期間通算
2005CパチューカJrプリメーラA21122112
2005Aイラプアト2019101910
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2005-06 (en) カステリョン21セグンダ17200-172
2006-07 (en) ヌマンシア24391010-4010
2007-08 (en) ラス・パルマス715320-173
ギリシャ リーグ戦 リーグ杯エラーダス杯 期間通算
2008-09 (en) イオニコス24ベータ (en) 249-249
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2010愛媛24J2297-10307
2011221-11232
2012140-00140
香港 リーグ戦 リーグ杯FA杯 期間通算
2012-13 (en) 横浜FC香港 /
YFCMD /
夢想駿其
[注 1]
20甲組83-20103
2013-14 (en) 1811-111912
2014-15 (en) 超級161020322112
2015-16 (en) 1662011197
通算日本J1 1564033513420249
日本J2 658-21679
パラグアイプリメーラ 36103610
メキシコプリメーラA 40224022
スペインセグンダ 711530-7415
ギリシャベータ 249-249
香港超級 / 甲組 583040746934
総通算 450134405229512148

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度クラブ背番号出場得点
CONMEBOLリベルタドーレス杯
2004 (en) グアラニー2051
2005 (en) パチューカ10
通算CONMEBOL 61

その他の国際試合

代表歴

関連情報

出演

書籍

脚注

注釈
  1. クラブ名は、2012年から「横浜FC香港」、2014年から「YFCMD」、2015年から「夢想駿其足球會」と変遷。
  2. 2001年序盤に組まれた呂比須・アマラオの2トップが機能せず、2トップを解消したことでチームは調子を取り戻していた。
  3. 福田曰く、南米の選手にとってメキシコは憧れの国で[35]、同国でのプレーは一つのステータス[36]
  4. ハケとモレは、現役時代にレアル・バリャドリードのチームメートであり、交流が続いていた[44]
  5. いわゆる「秋春制」
  6. 2004-05シーズン、同クラブは1部リーグに所属していたが、この時獲得した韓国人FW李天秀が無得点と期待外れに終わり[39]、クラブは2部へ降格。李と同じアジア人選手である福田に対しても懐疑的な目が向けられた[48]。なお、スペイン2部のクラブが保有できる外国籍枠(EU圏外の選手に当てられる)は僅か2つ[49][50]
  7. 降格した大埔足球会と横浜FC香港との勝ち点差は「1」。福田の得点が無ければ横浜FC香港が降格していた[78]
出典
  1. 『FC東京ファンブック2002』毎日新聞社、2002年、24頁。
  2. FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第1回 SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月6日)
  3. プロフィール (cache) サンケイスポーツ
  4. アーカイブ 2007年6月13日 - ウェイバックマシン スポーツ報知 (2007年6月11日)
  5. スペシャルインタビュー OrangeLife VOL.9 愛媛FC
  6. 福田健二 I DREAM スルガ銀行
  7. Sports Graphic Number「福田健二 遺書」』 No.636 (2005年9月22日号)、2005年。
  8. 小宮,2007年,12頁
  9. 過去の大会結果 日本クラブユースサッカー連盟
  10. 小宮,2007年,85-86頁
  11. 名古屋V 福田初出場で初ゴール / 1996年 日刊スポーツ
  12. ルーキー福田が活躍、名古屋快勝 朝日新聞デジタル
  13. リーグ戦DATA Jリーグ
  14. 再び頂点を目指して - 福田健二 スポーツナビ:後藤勝 (2003年9月2日)
  15. 小宮,2007年,89-92頁
  16. 「流浪のストライカーの勲章」元日本代表・福田健二 (1/2) 現代ビジネス (2010年1月1日)
  17. 21世紀の骨のあるヤツ 第93回 (2001年10月16日)
  18. 小宮,2007年,5頁
  19. “福田健二選手”FC 東京へ移籍のお知らせ - ウェイバックマシン(2001年10月27日アーカイブ分) 名古屋グランパスエイト (2001年8月27日)
  20. 福田健二選手 加入のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年3月7日アーカイブ分) FC東京 (2001年8月26日)
  21. F.C.TOKYO MAGAZINE BR TOKYO 2014年4月号』ユーメイド、2014年、52-56頁。
  22. 佐藤由紀彦選手、福田健二選手が日本代表候補に選出される! - ウェイバックマシン(2002年8月26日アーカイブ分) FC東京 (2001年9月19日)
  23. 小宮,2007年,100頁
  24. 福田健二選手 ベガルタ仙台へ完全移籍決定のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年1月11日アーカイブ分) FC東京 (2003年8月13日)
  25. 小宮,2007年,106頁
  26. 福田健二選手 ベルギー短期留学のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年3月11日アーカイブ分) FC東京 (2002年12月5日)
  27. 福田健二 選手 ベガルタ仙台完全移籍決定のお知らせ - ウェイバックマシン(2003年8月15日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2003年8月13日)
  28. 福田 健二 選手 パラグアイ・グアラニへ期限付き移籍決定 - ウェイバックマシン(2004年2月8日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2004年1月30日)
  29. 後藤勝『トーキョーワッショイ!』双葉社、191-192頁。
  30. 30歳、目指す代表入り 福田健二 朝日新聞デジタル (2008年7月29日)
  31. 福田 健二 選手 パラグアイ・グアラニへ期限付き移籍延長のお知らせ - ウェイバックマシン(2004年8月28日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2004年8月27日)
  32. パラグアイは「ずるい・激しい・強い」 デイリースポーツ (2010年6月29日)
  33. 「組織力 日本に勝機」福田選手、パラグアイの仲間誇り - ウェイバックマシン(2010年7月1日アーカイブ分) 中日スポーツ (2010年6月28日)
  34. パラグアイとの対決に気持ちは複雑の福田選手 - ウェイバックマシン(2010年12月9日アーカイブ分) blogola (2010年6月28日)
  35. FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第2回 SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月13日)
  36. 小宮,2007年,13-14頁
  37. 福田健二選手 メキシコ・パチューカへ期限付き移籍 - ウェイバックマシン(2004年12月23日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2004年12月23日)
  38. FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 第3回 SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月20日)
  39. 「流浪のストライカーの勲章」元日本代表・福田健二 (2/2) 現代ビジネス (2010年1月1日)
  40. 福田、公式戦で1得点1アシスト=メキシコL - ウェイバックマシン(2005年1月17日アーカイブ分) スポーツナビ (2005年1月14日)
  41. 福田、2ゴールで会場沸かせる=メキシコL - ウェイバックマシン(2005年1月30日アーカイブ分) スポーツナビ (2005年1月28日)
  42. 福田健二選手 メキシコ・イラプアトへ期限付き移籍のお知らせ - ウェイバックマシン(2006年1月17日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2005年8月3日)
  43. 福田健二選手 デポルティーボ カステリョンへ期限付き移籍のお知らせ - ウェイバックマシン(2006年3月3日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2006年1月3日)
  44. 小宮,2007年,22-25頁
  45. 福田健二、スペイン2部カステジョンと契約 livedoor スポーツ (2005年12月15日)
  46. 小宮,2007年,40-42頁
  47. 福田健二選手 スペイン2部リーグヌマンシアへ期限付き移籍のお知らせ - ウェイバックマシン(2007年3月7日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2006年8月31日)
  48. 小宮,2007年,48-49頁
  49. スペインから目指すワールドカップ 福田健二インタビュー (1/3) スポーツナビ (2008年2月8日)
  50. スペインリーグ初の日本人オーナー、坂本圭介が夢見る「和製欧州クラブ」。(3/4) Number (2013年3月22日)
  51. 福田健二選手 期限付き移籍期間延長のお知らせ - ウェイバックマシン(2007年1月2日アーカイブ分) ベガルタ仙台 (2006年12月27日)
  52. 小宮,2007年,124頁
  53. 福田がチーム得点王 地元メディアが選ぶ年間最優秀選手に スポーツナビ (2007年6月18日)
  54. 福田「仙台に恩ある」 - ウェイバックマシン(2007年10月10日アーカイブ分) 日刊スポーツ (2007年6月22日)
  55. ヌマンシア福田健二の胸の内。 Number (2007年5月10日)
  56. 小宮,2007頁,201-205頁
  57. 福田健二選手 ラス・パルマス(スペイン2部リーグ)へ完全移籍のお知らせ - ウェイバックマシン(2007年10月25日アーカイブ分)
  58. FORZA SHIKOKU:福田健二 (ギリシャリーグ・イオニコス/愛媛県新居浜市出身) 最終回 SPORTS COMMUNICATIONS (2008年10月27日)
  59. 福田健二「イオニコスでの1年を振り返って」 SPORTS COMMUNICATIONS (2009年6月11日)
  60. 待望のストライカー福田健二、加入決定! SPORTS COMMUNICATIONS (2009年10月28日)
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  62. 元グランパスFW福田がUAEリーグへ - ウェイバックマシン(2009年9月15日アーカイブ分) 中日スポーツ (2009年9月12日)
  63. 福田健二選手の登録について 愛媛FC (2010年3月5日)
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  65. 福田健二選手 新加入のお知らせ 愛媛FC (2009年10月28日)
  66. 2009年シーズンの追加登録期限と登録期間(ウインドー)について Jリーグ (2008年12月16日)
  67. 福田健二選手の選手登録について 愛媛FC (2010年3月12日)
  68. 「愛媛FC、背番号12の視点」:第148回「新主将」 SPORTS COMMUNICATIONS (2010年3月3日)
  69. 福田が決めた! 今季初白星 -Jリーグ ディヴィジョン2 第2節- SPORTS COMMUNICATIONS (2010年3月13日)
  70. 【J2:第3節 愛媛 vs 水戸】プレビュー J's GOAL (2010年3月21日)
  71. 選手出場記録 Jリーグ (2010年12月4日)
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関連項目

外部リンク

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