立花寿賰
立花 寿賰(たちばな ひさとみ)は、江戸時代後期の柳河藩の家老。立花政俊を祖とする重臣家の立花両家の一つ、立花内膳家(石高1000石)の6代目当主でもある。妻は立花鑑通の娘・松で、子女は立花種賰ほか4男2女(うち1女は養女)。諱(実名)は初め種輔(たねすけ)だったが、後に義弟で藩主の立花鑑寿から偏諱を賜り、寿徳(ひさとみ)、寿賰(読み同じ[1])に改名した。
凡例 立花寿賰 | |
|---|---|
| 時代 | 江戸時代後期 |
| 生誕 | 宝暦12年(1762年) |
| 死没 | 文政8年(1825年) |
| 改名 | 種輔 → 寿徳 → 寿賰 |
| 別名 | 幼名:松寿。通称:内膳。号:西廊。俗称:西廊君。 |
| 戒名 | 良機院殿功厳寿賰大居士 |
| 墓所 | 法輪寺(現福岡県大牟田市) |
| 官位 | なし |
| 主君 | 立花鑑通→鑑寿→鑑賢 |
| 藩 | 筑後国柳河藩家老 |
| 氏族 | 立花氏 |
| 父母 | 父:立花種房(相模) |
| 兄弟 | 千恵(立花鑑通の養女) |
| 妻 | 立花鑑通の娘・松 |
| 子 | 立花種賰ほか4男2女(うち1女は養女) |
「武の家」と言われた立花内膳家の当主だけに、家川念流剣術を皆伝し[2]、宝蔵院流槍術の目録を取得した他、越後流兵学に精通していた。また財政・経済通であったとされる。
経歴
宝暦12年(1762年)に柳川藩重臣の立花内膳家当主・立花種房(相模)の子として出生。寛政4年(1792年)に家老に就任。義兄弟の立花通栄らと豪傑組を組織して藩政改革を行う。しかし、寛政10年(1798年)に立花鑑寿に信任された小野勘解由により、通栄らは家老職を一時免職される(豪傑崩れ)が寿賰は処罰対象ではなかったとされる。その後は内証方上聞役や花畠御用掛となるが、その後辞職となる。 文政7年(1824年)に隠居し、文政8年(1825年)死去。
脚注
参考文献
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