竜巻作戦

竜巻作戦(たつまきさくせん)は[1]太平洋戦争において大日本帝国海軍が計画した、アメリカ海軍空母機動部隊に対する奇襲作戦である[注釈 1]

魚雷を搭載した特四式内火艇。

概要

竜巻作戦(資料によっては龍巻作戦)は[3]、日本海軍が太平洋戦争後半の1944年(昭和19年)4月から5月頃に計画した、水陸両用戦車(特四式内火艇)を用いた奇襲作戦[4][注釈 2]。 魚雷2本を搭載した特四式内火艇は潜水艦に搭載され、マーシャル諸島環礁にもうけられたアメリカ海軍機動部隊の根拠地まで進出[6]。潜水艦から発進後、サンゴ礁を超えて礁湖に侵入、停泊中の敵艦隊を雷撃するという作戦[7]黒島亀人軍令部第二部長が構想をとりあげ、既にZ作戦[8]雄作戦で実施を検討していた[9]。1944年(昭和19年)3月末の海軍乙事件連合艦隊が大混乱に陥り[注釈 3]、雄作戦が消滅したあとも、5月3日に着任した新司令長官豊田副武大将の統率下「あ号作戦」の一部として作戦を検討した[11]。だが成功の見込みがなく、5月12日に作戦延期発令[12]。実現しなかった。環礁に設営された前進根拠地(停泊中の敵艦隊)に対する奇襲雷撃という発想は、人間魚雷回天[13]、この特攻兵器を搭載した潜水艦による玄作戦に引き継がれた[14]

構想

日本海軍は、潜水艦搭載用の水陸両用戦車の研究をおこなっていた[2]1942年(昭和17年)6月上旬のミッドウェー海戦敗戦後、日本海軍は軍備計画を見直して改⑤計画を決定した[15]。つづいて軍令部は離島に対する奇襲や上陸作戦などに使用する目的で、輸送用潜水艦を建造することを要望した[16][注釈 4]。この輸送用潜水艦は、大発動艇や水陸両用戦車を搭載する予定だった[16]。軍令部は8月24日に提議、10月21日に改⑤計画の追加として、軍令部部長から海軍大臣あての商議が発せられた[18]。これが伊三百六十一型潜水艦(丁型潜水艦)である[19]。 同時に輸送用特殊潜航艇[注釈 5]や水陸両用戦車の開発もおこなわれ、特二式内火艇(軽戦車)と特三式内火艇(中戦車)の研究がすすめられた[21]。これら軍中央の動静とは別に、呉海軍工廠造船部実験部の堀元美技術少佐も、ガダルカナル島攻防戦の戦訓から水陸両用の貨物運搬艇を研究していた[1][22]。ありあわせのディーゼルエンジンで馬力の割に車体が大きく、水上速力は4ノット程度、砂浜で使うことを前提とした[22]。これが、後の特四式内火艇である[1]。大発動艇の代替であり、いわば水陸両用の貨物車であった[2]。堀元美は、ガダルカナル島戦終結により「足をもった運貨艇も棚上げだ」と思っていたところ、知らぬうちに18輌が生産されていて驚いたと回想している[22]

1943年(昭和18年)中旬以降、連合艦隊(司令長官古賀峯一大将、参謀長福留繁中将)はZ作戦を立案する[23][24]。当時の連合艦隊には、日本軍航空機の航続距離圏外にある敵艦隊拠点や前進基地に対し、大発動艇水上機、あるいは海軍陸戦隊を用いた奇襲攻撃を行うという構想があった[注釈 6]。 竜巻作戦の発想については、明確な資料が少ない[21]。本作戦の骨子は、魚雷を搭載した水陸両用戦車による敵艦船への奇襲であった[2]。魚雷を搭載した水陸両用戦車[26](特四式内火艇)[注釈 7]は潜水艦によって敵機動部隊の根拠地まで輸送され、サンゴ礁外で潜水艦から発進[28]。湾に張り巡らされた潜水艦防止網のリーフを越えるため、島嶼部に上陸した後に再び潜水し(源田実は「海底を這いながら」と表現)、礁湖内の泊地にあるアメリカ艦隊を攻撃する[28]

軍令部潜水艦担当作戦課員藤森康男中佐は「このような構想はガ島撤退の直後から従来の正攻法に対しもっと奇襲作戦を考えようというのが出発点で、防潜網を乗り越えて攻撃できないかと考えていた。十八年末ごろ、呉工廠の考案を知り特四式内火艇の実験を行ない、一応の成果を得た」という[1]。また吉松田守中佐(当時、海軍省軍務局局員)によれば「ケゼリン来攻直後の朝六時半ごろ、黒島亀人軍令部第二部長に呼び出され、大発に魚雷を積んでリーフを越えて攻撃する案を突然言われた。黒島部長の構想は潜水艦九隻に各二隻ずつ積み奇襲作戦を実施するもので、四隻試作し甲標的の搭乗員を充当し、情島(呉の近く)にQ基地を作り訓練を開始した」という[1]。これらの回想から、特四式内火艇は藤森部員の発想をマーシャル在泊の米機動部隊攻撃のために黒島亀人部長が取り上げ、実験するに至ったものと公刊戦史『戦史叢書』は推測している[21]

作戦経緯

1944年(昭和19年)1月末、アメリカ軍マーシャル諸島への侵攻を開始[29]、2月上旬には同地区を勢力下に治めた[30][31]日本軍が設定した絶対国防圏は、早くもアメリカ海軍の攻勢に晒された[32]。 2月中旬、日本海軍の一大拠点トラック泊地マリアナ諸島は、米軍機動部隊により壊滅的被害を受けるに至った[33][34]トラック島空襲[35]ブラウン環礁失陥[36]マリアナ諸島空襲[37])。 2月17日のトラック空襲において、潜水艦部隊(先遣部隊)[38]第六艦隊(司令長官高木武雄中将)は、従来の旗艦「香取」や新旗艦の特設潜水母艦平安丸」を喪失した[39][注釈 8][注釈 9]

3月になると、日本海軍は偵察機や潜水艦によって連合軍掌握下の中部太平洋諸島への偵察や[43]、牽制攻撃を実施し[44]、3月14日には呂号潜水艦メジュロ環礁に戦艦や空母を含むアメリカ艦隊や飛行場の存在を報告した[45]。当時の日本海軍の空母機動部隊(第一機動艦隊)はろ号作戦ブーゲンビル島沖航空戦などの影響から再建中であり、アメリカ海軍の空母機動部隊に決戦を挑むことは不可能であった[46]正規空母多数を擁し[47]、猛威を振るう米軍機動部隊[48]への反攻計画の一環として、大本営は源田実中佐(当時、軍令部部員)を中心に雄作戦を立案した[49][注釈 10]。 連合艦隊のZ作戦計画では、第一機動艦隊や基地航空部隊による航空作戦とともに[51][52]、特四式内火艇による敵機動部隊泊地奇襲を予定していた[注釈 11]。大本営海軍部(軍令部)が立案した雄作戦にも、特四式内火艇の奇襲が盛り込まれていた[53]真珠湾攻撃では特殊潜航艇(甲標的)を投入したが今時期では通用しないとみなされ、珊瑚礁を乗り越えて雷撃を敢行するという計画になったのである[49]

3月22日、高松宮宣仁親王(軍令部部員、海軍大佐)は呉に到着、練習巡洋艦鹿島」(予備旗艦香椎)に乗艦して海軍兵学校卒業式に臨席したのち、P基地(広島県倉橋島大浦崎の特殊潜航艇部隊訓練基地の秘匿名称)や呉海軍工廠を視察、特四式内火艇を含む各種兵器の説明を受けた[54]。 3月26日、軍令部関係者(山本親雄軍令部一課長、源田実大佐、藤森中佐)はパラオ諸島の連合艦隊司令部(戦艦武蔵)に出張、大本営の作戦を説明した[55]。連合艦隊側の反応について源田は「若干批判的な空気だった」と回想し[28]、山本は「連合艦隊司令部は(大本営の)計画に同意して、さっそく具体的計画の立案にとりかかることになった」と回想した[49][注釈 13]。翌27日、二人はパラオを出発し、マニラと台湾経由で東京に戻った[49]。しかし作戦検討をおこなう間に3月末の米機動部隊来襲と[56]パラオ大空襲[57]にともなう海軍乙事件(連合艦隊司令長官古賀峯一大将行方不明、参謀長福留繁中将捕虜および情報流出)が生起[58]。混乱のうちに雄作戦案は消滅した[59][60]

海軍乙事件により古賀長官が殉職したので[61]軍令承行令により南西方面艦隊司令長官の高須四郎大将(海兵35期)が連合艦隊の指揮をとった[62][注釈 14]。 高須長官はニューギニア島方面を重視して4月12日に「Z一作戦」を発令し連合艦隊の航空兵力の南西方面に移動させ、兵力を消耗させた[64]ホーランジアの戦い[65]

連合艦隊の指揮系統が混乱する中でも特四式内火艇による泊地奇襲計画は継続され、当初はZ隊作戦と呼称[1]。 続いて龍巻作戦と改称された[66]。 第六艦隊司令部は従来からサイパン島転進を検討していたが、龍巻作戦のためトラック泊地から内地に帰投、特設潜水母艦築紫丸に将旗を掲げた[67]。 4月26日、本作戦について中部太平洋方面艦隊[68]司令長官南雲忠一中将(サイパン島所在)は「情勢に適応しない」との理由で反対を表明した[1]。5月3日、新編された連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将)は[69]、東京湾の軽巡洋艦「大淀」に将旗を掲げた[11][70]。同日、連合艦隊司令部は「あ号作戦」計画を発令した[71]。奇襲作戦については、以下の記述がある。

(ロ)奇襲作戦
(一)先遣部隊ノ大部ヲ以テ奇襲作戦ヲ実施ス
(二)奇襲作戦ハ「マーシャル」諸島的要地ニ在泊ノ敵機動部隊ニ対シ之ヲ行フ
(三)奇襲作戦実施時期ヲT日トシ決定ハ先遣部隊指揮官ノ所信ニ依ル
(四)「あ号作戦開始」ノ令アラバ(奇襲作戦実施前)航空部隊及先遣部隊各一部兵力ヲ以テ要地ノ偵察ヲ行フ
(五)本作戦ヲ龍巻作戦ト呼称シ作戦要領ヲ別冊第二ノ通定ム

連合艦隊は先遣部隊(第六艦隊)に対し『竜巻作戦』発動を命じた[1][72]

龍巻部隊の攻撃目標は、敵機動部隊の航空母艦または特設航空母艦と下令された[72]。作戦に従事する潜水艦は5隻(伊36伊38伊41伊44伊53)、このうち伊36以外の4隻は瀬戸内海に集結[72]。5月6日頃より[72]広島県呉市情島、後に対岸の倉橋島の秘密基地で約800人が実戦訓練を受けた[73]。この中には、戦艦陸奥爆沈から生還した上別府宣紀大尉も含まれていた[74]。陸奥爆沈後[75]、上別府大尉は海軍水雷学校へ転勤して魚雷艇艇長の講習をうけ、特四内火艇の要員を命じられたという[74]。 だが各部隊の連合訓練で、特四内火艇の欠陥が露呈する[72]。海軍省軍務局の吉松中佐は、特四式内火艇の速力は7ノット、潮流のあるところでは4ノット程度だったと回想している[21]。さらに原型は砂浜で用いることを前提にした貨物艇だったため、考案者も第六艦隊司令部も絶対に成功の見込みはないと判断、故意に予備実験を不成功にしたという[22]。実際に、エンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で破損するなど欠陥が浮上する[72]第六艦隊の意見具申もあり、連合艦隊は5月12日に作戦延期を決定した[76][77]

竜巻作戦の延期にともない、「あ号作戦」における先遣部隊の役割は要地偵察や敵機動部隊の捕捉が主になった[78]。第六艦隊司令部は、予定どおり内地からサイパン島へ進出する[79][注釈 17]。高木長官・通信参謀・航海参謀は6月6日にサイパン進出[67]。参謀長仁科宏造少将、参謀鳥洲健之助少佐、機関参謀は筑紫丸に残って潜水艦の訓練と整備に従事した[67]。後日、第六艦隊司令部はサイパン島地上戦に巻き込まれ、潜水艦による救出作戦にも失敗し[81]、高木長官は南雲長官等と共に玉砕した[82][83]

潜水艦および特殊兵器による敵艦隊泊地への奇襲攻撃という発想は、人間魚雷回天玄作戦に引き継がれた[14]。上別府大尉は人間魚雷回天搭乗員に転じ[74]第一次玄作戦における伊37(菊水隊、回天搭載艦)沈没時に戦死した[84][85]

その後、「特四式内火艇突撃隊」なる部隊が編成され、フィリピン戦に投入予定だったという[22]。輸送船が沈められて半数は全滅、残部隊は宮崎県志布志付近で本土決戦に備え、終戦に至ったという[22]

脚注

注釈

  1. 「特型内火艇」[2](特二式内火艇、特三式内火艇、特四式内火艇の解説)
  2. (ハ)作戰要領(中略)[5](二)潜水部隊 潜水艦は奇襲作戰、哨戒及追撃に使用する奇襲作戰はマーシャル群島方面の泊地に碇泊中の敵機動部隊に對して行ふもので龍卷作戰と呼稱した/使用兵器は特四戰車と呼ばれた一種の魚雷艇であつてこの兵器の輸送に大型潜水艦五隻を使用する様に計畫した(以下略)
  3. 古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職したあと、次席指揮官高須四郎中将(南西方面艦隊司令長官)が連合艦隊の指揮を引き継いだ[10]
  4. アメリカ海軍も、1942年(昭和17年)8月17日に潜水艦2隻(ノーチラスアルゴノート)とアメリカ海兵隊によりギルバート諸島へ奇襲上陸特殊作戦を敢行、成果をあげている[17]マキン奇襲)。
  5. 特攻兵器以外の特殊兵器[20]特型運貨筒、運貨筒について)
  6. (チ)海上交通破壊作戰(中略)[25](三)奇襲作戰 (1)我が基地航空機の攻撃圏外の敵前進基地に對しては大發及水上機の秘密連綴基地を使用した奇襲を行う/(2)遠隔の敵島嶼基地は特別陸戰隊を以つて攻略破壊する/(3)水上爆撃機搭載の大型潜水艦完成後は米本土の艦隊及沿岸重要工業に對し攻撃を實施する/(4)當分の間奇襲作戰の目標はアリューシャン列島(ダッチハーバー西方)の要點、太平洋南西部、濠洲及ベンガル灣の沿岸要點に限定する(以下略)
  7. 特四式内火艇は、九一式魚雷なら4本、九三式魚雷なら2本を搭載予定であった[2]。魚雷艇や[5]、武装した内火艇もしくは大発動艇ともいうべき兵器であり、「○隻」と数えた[27]
  8. 太平洋戦争開戦より第六艦隊旗艦を務めていた練習巡洋艦「香取」は、2月15日付で海上護衛総司令部に編入されていた[40]。輸送船「赤城丸」や駆逐艦2隻と共に内地帰還の予定であった[41]
  9. 「平安丸」退船後、第六艦隊司令部は第85潜水艦基地隊に移動した[42]
  10. 雄作戰構想[50] 一方敵はメジュロ等の前進根據地を急速に強化中と認められ、遠からざる将来に大規模な攻勢作戰を企図しているものと判斷された。斯る情勢に処して日本海軍は、敵反攻の核心たる空母を基幹とする敵機動部隊の撃滅を先決問題となし予てより之が好機を覗いつつあつた。
     即ち大本營海軍部は既に早くも三月、敵の来攻に先だち敵機動部隊の主力を其の前進根據地メジュロに於て先制奇襲すべく雄作戰なるものを立案して聯合艦隊司令部と連絡中であつた。その要旨は我第一機動部隊及基地航空部隊の大部約一,〇〇〇機並に潜水艦部隊を以て、五月上旬又は中旬、東部内海地方面より出撃して主として小笠原マーカスウエイキ島方面よりメジュロに進撃するにあつた。然し此の計画は三月末の聯合艦隊首腦部の遭難により中止の已むなきに至つた。(おわり)
  11. Z作戦指導腹案(昭和19年3月8日)の「作戦要領」項中に「(五)専守防禦ニ陥ルコトナク凡有奇襲方策ヲ以テ極力敵勢ノ撃滅ヲ図ル 之ガ為/イ 航空機ヲ以テスル「「マーシャル」方面奇襲攻撃ヲ実施シ/ロ S特水陸両用戦車、特大發ヲ以テスル「マーシャルル」方面在泊敵艦隊ノ奇襲ヲ計画準備ス 」とある[8]
  12. 『三月二十二日(水)半晴 山岡惣一(福山)、一八・四志。/〇八一〇呉駅着、「鹿島」へ。〇八三〇出港。〇九一五江田内ニ入ル前、皇族旗ヲアグ(皈、仝ジニ卸ス)。兵学校卒業式、練兵場ニテ。私ハ初メテナリ。恩寵者十名、二席ノ草間生徒虫様突起炎ニテ欠席。一一三五発、「鹿島」ニテ呉ヘ。一三一五入港、直ニP基地ヘ(S金物及U・)。呉工廠ニテ増産実況説明。特四舟内〔内火艇〕、高速潜水艦、特運等見テ、小用ヘ。一七五〇上陸、兵学校ヘ。/〔予定約束〕兵学校卒業式。御召艦ノ件。』
  13. 山本は、雄作戦実施予定日について「6月7日だった」と回想している[49]
  14. 一、決戰の機迫る[63] 四月に於ける海軍の態勢  パラオより比島に向う移動途中に於ける聯合艦隊司令部主要要員の殉職に伴い、昭和十九年四月、聯合艦隊の指揮は在スラバヤの南西方面艦隊司令長官高須四郎中将が之をとつていた。/ マリアナ、カロリン方面に於ては、第一航空艦隊が鋭意作戰準備の完成に努めつつあつた。又中部太平洋艦隊は、第四艦隊、第十四航空艦隊(第二十二及二十六航空戰隊基幹)及陸軍第三十一軍を指揮して中部太平洋方面の防備を固めつつあつた。濠北方面の防備は南西方面艦隊が之に当つていた。三月一日編成されたところの第一機動艦隊の主力はシンガポール及ルンガ方面に於て、又その一部は内地に於て及次期作戰準備に努めていた。(以下略)
  15. 〔 四月二十五日(火)曇(中略)○聯合艦隊参謀長(二五-一七二一)Z隊作戦ハ予定通実施ノ内意ニ付、研究準備ヲ進メラレ度。同作戦名称ヲ「龍巻作戦」ト改メラル《水陸両用大発ニヨル環礁内敵艦魚雷襲撃作戦ナリ》。〕
  16. 〔 五月十三日(土)晴(中略)○聯合艦隊(一二-二一〇三)作84号 一、龍巻作戦実施ハ当分延期ス/二、先遣部隊指揮官ハ龍巻作戦当当予定兵力ヲ以テ左ノ作戦ヲ実施スベシ。(イ)伊10及中型潜、マーシャル方面偵察。(ロ)大型二隻、マーシャル方面補給及挺身航空偵察隊ノ収容。(ハ)大型三隻、「マ」散開線RMG〔アドミラルティ諸島〕RZN〔ウェワク〕間ニ配備、敵情偵知。(ニ)大型一隻、六月上旬マーシャル方面航空偵察 〕
  17. 当時の日本海軍は、大本営海軍部や連合艦隊を含めて「アメリカ海軍は西カロリン諸島(パラオ方面)に攻めてくる。マリアナ諸島に来襲するのは当分先」と判断していた[80]

出典

  1. 戦史叢書98巻 314-315頁〔 龍巻作戦発令までの経緯 〕
  2. 戦史叢書88 1975, p. 184.
  3. 戦史叢書12 1968, pp. 431a-432龍巻作戦発令までの経緯
  4. 高松宮日記7巻355頁、欄外解説より
  5. #第3段作戦・第2、作戦構想 p.22
  6. 聯合艦隊作戦室191-192頁
  7. 高松宮日記7巻424頁、欄外解説より
  8. 戦史叢書12 1968, p. 110-115Z作戦指導腹案(一九.三.八)
  9. 戦史叢書12 1968, p. 127-129雄作戦構想
  10. 戦史叢書12 1968, pp. 227–229南西方面艦隊司令長官の聯合艦隊指揮の繼承
  11. 戦史叢書12 1968, pp. 305–306.
  12. 戦史叢書12 1968, p. 433a龍巻作戦準備とこれの延期
  13. 戦史叢書88 1975, pp. 175–176「回天」(マル6兵器)
  14. 戦史叢書88 1975, pp. 176–177「回天」の潜水艦搭載
  15. 戦史叢書88 1975, pp. 2–4, 33–36.
  16. 戦史叢書98巻 174-175頁〔 丁型潜水艦 〕
  17. 「17年8月15日~17年8月31日」、昭和17.7.1~昭和17.9.28 太平洋戦争経過概要 その3(防衛省防衛研究所) アジア歴史資料センター Ref.C16120633400 pp.4,7-8,10(昭和17年8月17日、18日~19日~20日)
  18. 戦史叢書88 1975, pp. 49–52潜水艦(丁)
  19. 戦史叢書88 1975, pp. 95–96一等潜水艦(丁型)
  20. 戦史叢書88 1975, pp. 183–184.
  21. 戦史叢書12 1968, p. 431b.
  22. 堀元美 1983, pp.262-266〔 (六)特殊な部隊のこと 〕
  23. #第3段作戦・第2、作戦構想 pp.13-18〔 三、Z作戰の構想 〕
  24. 戦史叢書12 1968, pp. 7–8聯合艦隊第三段作戦命令
  25. #第3段作戦・第2、作戦構想 pp.12-13
  26. 源田実は『海軍航空隊始末記』270ページで「特四式戦車」と表記。
  27. 「引渡品目録(兵器)」、嵐部隊 引渡目録 1/2(防衛省防衛研究所) アジア歴史資料センター Ref.C08011110300  p.3
  28. 海軍航空隊始末記 268-269頁〔 立ち消えになった「雄」作戦 〕
  29. 戦史叢書12 1968, pp. 19–24ケゼリン失陥に伴う大本営並びに聯合艦隊の作戦指導
  30. 「略歴(甲) 自昭和19年1月 至昭和19年3月」、昭和16.12~20.8 太平洋戦争略暦(甲)(主要作戦推移の概要)(防衛省防衛研究所) アジア歴史資料センター Ref.C16120620200 
  31. 海軍航空隊始末記 252-259頁〔 果然、内南洋に攻勢を受く 〕
  32. 戦史叢書12 1968, pp. 24–25.
  33. #第3段作戦・第3、経過概要 pp.7-8〔 二、ケゼリン上陸(昭和一九、二) 〕
  34. 「昭和19年1月経過概要~昭和19年3月経過概要」、昭和16.12~20.9 第2次世界大戦略歴(乙)第1号(主要作戦の概要)(防衛省防衛研究所) アジア歴史資料センター Ref.C16120622500  pp.6-11(昭和十九年二月經過概要)
  35. 戦史叢書12 1968, pp. 57–66米機動部隊のトラック空襲
  36. 戦史叢書12 1968, p. 67ブラウンの失陥
  37. 戦史叢書12 1968, p. 75-81米機動部隊のマリアナ来襲
  38. 戦史叢書12 1968, pp. 42–43先遣部隊の作戦
  39. 戦史叢書98巻 290-294頁〔 トラック被空襲時の作戦 〕
  40. #=S18.11海上護衛総司令部日誌(1) p.52(昭和19年2月)(五、作戰經過概要)〔 一五|敵攻略部隊「グリン」島ニ上陸開始|香取ヲ當總司令部部隊ニ編入セラル 〕
  41. #=S18.11海上護衛総司令部日誌(1) p.53(昭和19年2月)(五、作戰經過概要)〔 一七|敵機動部隊「トラツク」ニ來襲(B六-八、A八、C一三、D15)|香取 第四驅逐隊(、舞風)及赤城丸等ト率ヰ「トラツク」出撃直後同北口附近ニ於テ敵飛行機約二〇〇機ノ來襲ヲ受ケ大火災ヲ生ジ遂ニ沈没 〕(註:第4駆逐隊は野分舞風
  42. 戦史叢書12 1968, pp. 177–178トラック被空襲時の作戦
  43. 戦史叢書12 1968, p. 94-99大本営並びに聯合艦隊等の作戦指導
  44. 戦史叢書12 1968, p. 161ブラウン攻撃
  45. 高松宮日記7巻 341-342頁〔 三月十四日(火)/○呂44潜(一四-〇〇四八) 〕
  46. 戦史叢書12 1968, pp. 25–26聯合艦隊の作戦方針
  47. 戦史叢書12 1968, p. 82-83,100.
  48. 戦史叢書98巻 308-309頁〔 全般情勢と聯合艦隊の作戦計画 〕
  49. 山本親雄 1982, pp.151-155〔 真珠湾作戦の再現―「雄」作戦の構想 〕
  50. #あ号作戦計画 pp.2-3
  51. 戦史叢書12 1968, p. 108-110Z作戦計画の改定と雄作戦構想
  52. 戦史叢書12 1968, p. 115-127Z作戦計画の発令
  53. 戦史叢書12 1968, pp. 127–129雄作戦構想
  54. 高松宮日記7巻354-355頁[注釈 12]
  55. 戦史叢書12 1968, p. 129.
  56. 戦史叢書12 1968, pp. 198–202米機動部隊の来襲
  57. 戦史叢書54 1972, pp. 378–379聯合艦隊司令部の移動
  58. 戦史叢書54 1972, pp. 379–380一、二番機の遭難
  59. 海軍航空隊始末記 271-272頁〔 我に不利な事情重なる 〕
  60. 山本親雄 1982, pp.158-161〔 古賀長官の事故死で全作戦に乱れ 〕
  61. 戦史叢書12 1968, pp. 212–214聯合艦隊司令部のダバオ移動と古賀長官の殉職
  62. 戦史叢書54 1972, pp. 380–382聯合艦隊の指揮継承
  63. #あ号作戦計画 pp.1-2
  64. 戦史叢書12 1968, pp. 229–232Z一作戦要領の発令
  65. 戦史叢書54 1972, pp. 382–389三、連合軍のホランジア、アイタペ来攻
  66. 高松宮日記7巻399-401頁[注釈 15]
  67. 戦史叢書98巻 321-322頁〔 第六艦隊司令部の行動 〕
  68. 戦史叢書88 1975, pp. 120–121五 中部太平洋方面艦隊の新設、陸軍第三十一軍の編成と1AFの進出。
  69. 戦史叢書12, 1968 & ps新聯合艦隊司令部の発令, pp. 232–235.
  70. 戦史叢書54 1972, pp. 389–390「あ」号作戦準備
  71. 戦史叢書12 1968, pp. 339–351聯合艦隊の「あ」号作戦計画
  72. 戦史叢書98巻 315-316頁〔 作戦計画とその延期 〕
  73. 朝日新聞』広島版、2011年9月5日付朝刊29面
  74. 重本俊一 1989, pp.187-191〔 期友への負い目 〕
  75. 戦史叢書88 1975, p. 109戦艦陸奥の爆沈
  76. 戦史叢書12 1968, p. 433b.
  77. 高松宮日記7巻424-425頁[注釈 16]
  78. 戦史叢書12 1968, pp. 424–425先遣部隊の「あ」号作戦計画
  79. 戦史叢書12 1968, p. 434.
  80. 戦史叢書12 1968, pp. 323–325マリアナ方面来攻判断
  81. 戦史叢書12 1968, p. 612.
  82. 戦史叢書12 1968, p. 615.
  83. 戦史叢書12 1968, pp. 616–618マリアナの失陥
  84. 重本俊一 1989, pp.191-194〔 最後の手段 〕
  85. 戦史叢書98巻 485-486頁〔 伊37 〕

関連文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年5月31日 第10戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030050300。
    • 『昭和18年12月1日~昭和19年11月30日 軍艦高雄戦時日誌(2)』。Ref.C08030569800。
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(1)』。Ref.C08030137300。
    • 『「第6編/第1章 国防圏前衛線の逐次崩壊(1)」、大東亜戦争全史草案 第6編(防衛省防衛研究所)』。Ref.C13071336100。
    • 『「第6編/第1章 国防圏前衛線の逐次崩壊(2)」、大東亜戦争全史草案 第6編(防衛省防衛研究所)』。Ref.C13071336200。
    • 『「第6編/第2章 絶対国防圏の戦備強化」、大東亜戦争全史草案 第6編(防衛省防衛研究所)』。Ref.C13071336400。
    • 『「第6編/第3章 「あ」号作戦計画」、大東亜戦争全史草案 第6編(防衛省防衛研究所)』。Ref.C13071336600。
    • 『「昭和19年4月経過概要~昭和19年6月経過概要」、昭和16.12~20.9 第2次世界大戦略歴(乙)第1号(主要作戦の概要)(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120622700。
    • 『「昭和19年4月経過概要~昭和19年6月経過概要」、昭和16.12~20.9 第2次世界大戦略歴(乙)第1号(主要作戦の概要)(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120622700。
    • 『「昭和17年5月3日~昭和17年6月2日」、昭和17年5月3日 昭和17年6月24日 あ号作戦日暦(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120697700。
    • 『「昭和17年6月3日~昭和17年6月24日」、昭和17年5月3日 昭和17年6月24日 あ号作戦日暦(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120697800。
    • 『「第1、第三段作戦転換時の一般情勢」、第3段作戦の構想と経過の概要 昭和18~20)(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120698800。
    • 『「第2、作戦の構想」、第3段作戦の構想と経過の概要 昭和18~20)(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120698900。
    • 『「第3、経過概要」、第3段作戦の構想と経過の概要 昭和18~20)(防衛省防衛研究所)』。Ref.C16120699000。
  • 源田実「国運を賭したマリアナ海戦」『海軍航空隊始末記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年12月(原著1962年)。ISBN 4-16-731003-1。
  • 重本俊一『回天発進 わが出発は遂に訪れず』光人社、1989年4月。ISBN 4-7698-0436-9。
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4。
  • 中島親孝「第六章 最大の海戦〈聯合艦隊参謀時代(二)〉」『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争 参謀が描く聯合艦隊興亡記』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年10月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2175-1。
  • 福田誠・松代守弘『第二次大戦作戦名事典1939‐45 (WAR HISTORY BOOKS)』光栄、1999年。 ISBN 4-87719-615-3
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 マリアナ沖海戦』 第12巻、朝雲新聞社、1968年2月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降 第54巻、朝雲新聞社、1972年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<5> ―第三段作戦中期― 第71巻、朝雲新聞社、1974年3月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍戦備<2> ― 開戦以後 第88巻、朝雲新聞社、1975年10月。
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
  • 堀元美「第4章 日本海軍についての常識的事項」『連合艦隊の生涯』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1983年6月。ISBN 4-257-17028-X。
  • 山本親雄「第4章 攻勢防御ならず」『大本営海軍部』朝日ソノラマ〈航空戦史シリーズ〉、1982年12月。ISBN 4-257-17021-2。

関連項目

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