細谷雄太
経歴
1882年4月、山形県西村山郡谷地町(現・河北町)生まれ。旧制第一高等学校、東京帝國大学医科大学を卒業。
最初は定型俳句の俳人として「一高俳句会」に所属。のち新傾向俳句の河東碧梧桐に師事、また荻原井泉水とも交流する中で新傾向、自由律俳句に傾倒する。新傾向俳句機関誌『層雲』の同人となり、のちに自由律俳句誌の『海紅』創刊にも参加。古くからの碧門だったが、碧梧桐が海紅離脱後に立ち上げた『碧』や『三昧』にはついて行かず、中塚一碧楼が主宰となった海紅に残った。 それでも1937年(昭和12年)1月に碧梧桐が危篤状態に陥ると真っ先に見舞いに詰めかけている[1]。
1940年(昭和15年)、一碧楼が大政翼賛会発足に伴い結成された日本俳句作家協会(後の日本文学報国会)で理事に就任した際は評議員となった[2]。1950年11月、68歳で死去。
主な著書
代表句
- 串ざしの蛤みな干上がり串太き秋の日
- 春日のビフテキの店柿いろの暖簾を垂れ
- 蟷螂とぶとき身軽うわれらが方へ
脚注
- 新傾向俳句の先駆者、死去『中外商業新聞』(昭和12年2月2日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p85 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- 日野百草「戦前の自由律における社会性俳句」殿岡駿星編著『橋本夢道の獄中句・戦中日記』290頁。
- 千葉大学医学部耳鼻咽喉科学教室史
外部リンク
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