花形敬
概要
身長は当時の朝日新聞に174cmであると記載されているが、安藤組幹部や対峙した相手からは180cmは超えていたとの証言があり正確なところは不明である。
安藤組組長・安藤昇にもっとも可愛がられた人物。前科7犯、22回の逮捕歴を持った。安藤による評価が高く、花形をモデルとした人物が小説や映画、漫画に数多く登場するため、伝説的な存在となっている。その喧嘩は「素手喧嘩(ステゴロ)」と呼ばれ、喧嘩に武器は一切持たない主義であったという話がある[1]。白のスーツがトレードマークであった。
経歴
世田谷区船橋町(現・船橋 (世田谷区))の旧家の子として生まれる[2]。東京府立千歳中学校を自主退学後、移籍先の国士舘中学校において後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。この時は国士舘大学の柴田不動丸の仲で石井は花形に番長を譲り、花形は石井を年長としてたてることで決着するが、ほどなく国士舘を退学処分された。その後明治大学予科に進学しラグビー部に所属したが、同部の北島忠治監督によると「記憶にない」という。
昭和25年、石井福造の仲介で安藤の舎弟となり、渋谷を中心に活動。
安藤によれば、力道山が渋谷に出店したキャバレー純情の用心棒を気取り、同店が安藤組への挨拶を欠いたため、花形が店に押し掛け、丁度店内にいた力道山を一喝し、力道山を退かせたとされる。しかし、森田雅の著作『修羅場の人間学』では、この時点では花形は関わっておらず、純情の店内で力道山を一喝したのは大塚稔(後の二代目大日本一誠会会長)であり、追われるように店外に出た力道山に森田と花田瑛一が対峙し一蹴したことになっている。
家族
- 曾祖父・花形長之助(1917年没) ‐ 花形家17代当主。地元の有力者で、地元一帯が品川県から東京府荏原郡に編入されたのも長之助の働きと言われる。宮内省に出仕した帰りに乗っていた馬車が市電にぶつかり事故死[2]。
- 伯父・花形明三(1870-1912) ‐ 長之助長男。18代当主。東京専門学校卒業後、人造絹糸の製造に乗り出すが失敗、青山に豪邸を構え、尾張町で輸入カーペット・カーテン販売業[2]。
- 伯父・花形武平 ‐ 明三の弟。19代当主。第一女子商業学院(1929~1931)に資金援助[2][3][2]。
- 父・花形正三(1883-?) ‐ 米国シアトルに留学し、ブロードウェイ・ハイスクールなどで英語を学んだのち、キャデラックディーラーで働く。結婚後シアトルで暮らし、1924年帰国。[2]
- 母・美以(1894-?) ‐ 元萩藩士・来須家の娘。1917年に結婚し、夫ともに渡米。三男三女を儲ける。[2]
- 親戚・宮川船夫 ‐ ハルピン総領事。姉の夫の叔父[2]
関連書籍
脚注
- 森田雅「修羅場の人間学」、「闘いて候う」
- 『疵 花形敬とその時代』本田靖春、ちくま文庫、2009、p13-
- 渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図 女子教育C〔教育〕渋沢栄一記念財団
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