赤田次郎
略歴
奥州藤原氏の一族で、越後国刈羽郡赤田保を名字の地とするとされるが異説もある[1]。文治5年(1189年)、奥州合戦において、金十郎・勾当八と刈田郡根無藤(現・蔵王町円田)砦の大将として布陣する。8月10日、阿津賀志山の戦いに勝利した頼朝方の三沢安藤四郎・飯富宗長が根無藤へ攻めかかるとよく防戦したが、金十郎が戦死すると遂に総崩れとなった。赤田次郎は勾当八ら30人と捕虜になった[2][3]。翌月、泰衡が家人の河田次郎に討たれて首級が頼朝の元に送られると、頼朝は和田義盛と畠山重忠に首実検を行うように命じた。その際、捕虜だった赤田次郎が召し出され、首級は泰衡のものに相違ない旨を証言している[4][5]。その後は近江国犬上郡曾我に領地を与えられ、子孫定住したという[1]。
脚注
出典
- 太田 1963, p. 25.
- 大塚 & 竹内 1987, § 根無藤.
- 『吾妻鏡』 2008, pp. 289–290.
- 森 1990, § 陣ヶ岡.
- 『吾妻鏡』 2008, p. 295.
参考文献
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