趙彦深

趙 彦深(ちょう げんしん、507年 - 576年)は、中国東魏から北斉にかけての官僚政治家。本名は隠。は彦深。本貫南陽郡宛県[1][2][3]

経歴

趙奉伯と傅華のあいだの子として生まれた。幼いころに父を失い、貧しい生活のなかで母に孝事した。はじめ尚書令司馬子如の賤客となり、書写をつとめた。子如は彦深の仕事に誤りがないのに感心して、官庁に入れるために衣服を与えた。書令史に任用されて、1月あまりで正令史となった[4][2][5]

高歓晋陽にいたとき、2人の史を求めると、子如は彦深を推挙した。後に彦深は子如の下で開府参軍をつとめ、水部郎の位を受けた。高澄尚書令となって人事にあたると、彦深は滄州別駕として出向を命じられたが、固辞して行かなかった。子如が高歓に彦深を大丞相功曹参軍として任用するよう推薦し、高歓の発行する文書の多くは彦深の手で書かれた。彦深の慎重な仕事ぶりは高歓に高く評価された[6][7][8]

武定5年(547年)1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。武定7年(549年)、潁川攻撃の軍に参加して、西魏王思政を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た[9][10][8]

高洋が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の天保元年(550年)、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された[11][10][12]。天保6年(555年)11月、蕭軌の南征に従い、南朝梁から秦郡など5城を奪い、当地の治安を安定させた[13][14]。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。河清元年(562年)、爵位は安楽公に進んだ[15][10][16]。河清2年(563年)3月、尚書左僕射となった[17][18][19]斉州大中正・監国史をつとめた[15][10][16]天統3年(567年)閏6月、尚書令に任じられた[20][21][22]。特進となり、宜陽王に封じられた[15][10][16]武平2年(571年)2月、司空の位を受けた[23][24][25]祖珽とのあいだが険悪となり[15][10][16]、11月に西兗州刺史として出された[26]。武平4年(573年)4月、召還されてまた司空となった[27][28][29]。武平6年(575年)閏月、司徒に転じた[30][31][32]。武平7年(576年)、母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。6月、突然の病のため死去した。享年は70[15][33][16]

人物・逸話

  • 彦深が3歳のとき、家人は母の傅華に再嫁させようとしたが、傅華は死を誓って許さなかった[34][33][16]
  • 彦深が5歳のとき、傅華が「家は貧しく子は小さいのに、どうやって生きていくことができよう」と彦深に言った。彦深は泣いて「もし天に哀れみがあるなら、子が大きくなって良い知らせもありましょう」と言った。傅華は息子の言葉に感動して、涙を流した。後に彦深が太常卿となると、帰宅して朝服も脱がず、まずは母に会って跪き、幼少の露命をつなぎ、母の教えでここにいったことを述べた。母子はともに泣くこと久しかった。傅華は後に宜陽国太妃となった[34][33][16]
  • 彦深が10歳のとき、司徒崔光に面会して、将来を嘱望された[4][2][3]
  • 彦深の性格は聡明で、書記や会計を得意とし、あまり人と交遊せず、安閑とした暮らしを楽しんだ。いつも人に見られないように自邸の門外を掃き清めていた[4][2][5]
  • 王思政を潁川で包囲したとき、高澄は「わたしは昨夜狩猟の夢を見て、1群の猪に出会った。わたしはそれらを射てことごとく仕留めたが、ただ1頭の大猪だけを仕留めることができなかった。卿がわたしに取るよう言うと、たちまち残った大猪を仕留めて進むことができた」と彦深に言った。潁川が陥落すると、高澄は笑って「夢のしるしだったな」と言って、王思政の佩刀を彦深に与え、「卿が常にこの利を得られるように」と言った[9][2][8]
  • 彦深は東魏・北斉の高氏歴代に仕えて、常に側近にあり、温厚でつつましく、喜怒を顔に出さなかった。皇建年間以後は、礼遇がことに重く、皇帝の引見を受けても、官号で呼ばれて実名を出されなかった[15][33][16]
  • 彦深は人材を推薦するにあたって、実績を重んじて、軽薄な人物は歯牙にもかけなかった[15][33][16]
  • 常山王高演が北斉の政権を握ると、群臣の多くが帝位につくよう勧進したが、彦深はひとり沈黙を守った。高演が王晞に相談し、王晞が彦深に告げると、彦深はやむをえず勧進に動いた。かれの挙動は当時たいへん重んじられていた[15][33][16]

家族

後漢太傅趙憙の後裔と自称していた。

  • 高祖父:趙難(清河郡太守[35][2][3]
  • 父:趙奉伯(北魏の中書舎人・行洛陽県令。司空の位を追贈された)[4][2][3]
  • 母:傅華(483年 - 576年、清河郡貝丘県の人。済南郡太守傅天民の娘。東魏の武定末年に清河郡君となり、北斉の天統年間に平原郡長君となり、武平初年に宜陽国太妃となった。諡は貞穆)[36]

趙彦深には7人の子があり、とくに趙仲将が名を知られた。

脚注

  1. 氣賀澤 2021, pp. 484–485.
  2. 北斉書 1972, p. 505.
  3. 北史 1974, p. 2006.
  4. 氣賀澤 2021, p. 485.
  5. 北史 1974, pp. 2006–2007.
  6. 氣賀澤 2021, pp. 485–486.
  7. 北斉書 1972, pp. 505–506.
  8. 北史 1974, p. 2007.
  9. 氣賀澤 2021, p. 486.
  10. 北斉書 1972, p. 506.
  11. 氣賀澤 2021, pp. 486–487.
  12. 北史 1974, pp. 2007–2008.
  13. 氣賀澤 2021, p. 90.
  14. 北斉書 1972, p. 61.
  15. 氣賀澤 2021, p. 487.
  16. 北史 1974, p. 2008.
  17. 氣賀澤 2021, p. 119.
  18. 北斉書 1972, p. 91.
  19. 北史 1974, p. 283.
  20. 氣賀澤 2021, p. 126.
  21. 北斉書 1972, p. 100.
  22. 北史 1974, p. 289.
  23. 氣賀澤 2021, p. 131.
  24. 北斉書 1972, p. 104.
  25. 北史 1974, p. 292.
  26. 隋書 1973, p. 638.
  27. 氣賀澤 2021, p. 134.
  28. 北斉書 1972, p. 107.
  29. 北史 1974, p. 295.
  30. 氣賀澤 2021, p. 136.
  31. 北斉書 1972, p. 108.
  32. 北史 1974, p. 296.
  33. 北斉書 1972, p. 507.
  34. 氣賀澤 2021, p. 488.
  35. 氣賀澤 2021, p. 484.
  36. 趙 2008, pp. 473–474.
  37. 北史 1974, pp. 2008–2009.
  38. 氣賀澤 2021, p. 489.
  39. 北史 1974, p. 2009.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
  • 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8。
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。
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