趙徳芳
生涯
『宋史』の記載によれば、太祖崩御の際、宋皇后は内侍王継恩に徳芳を入宮させることを命じたが、王継恩は太祖の遺詔を握り潰して、晋王光義の元に参じた。そして晋王が即位し、後に太宗と称されることになった。皇子を差し置いて皇弟が即位するという異常事態に「千載不決の議」と称される皇位簒奪疑惑が発生した。
太平興国4年(979年)に男子趙惟憲をもうけたが、太平興国6年(981年)3月に23歳で病死し、その死も当時太宗との関連が噂された。諡号は康恵。中書令が追贈され、岐王に追封された。後に太師が加贈され、楚王に改封された。
話本と京劇における形象
- 『楊家将』:八賢王
脚注
- 『続資治通鑑長編』巻22, 太平興国六年三月己酉条による。
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