趙衰
趙 衰(ちょう さい、? - 紀元前622年)は、中国春秋時代の晋の政治家。姓は嬴、氏は趙、諱は衰、字は子余、諡は成。趙成子とも呼ばれる。趙共孟、あるいは大夫であった趙夙の子(弟の説もある)で、戦国七雄の趙の祖[1]。

趙衰
生涯
出奔
紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳に従い、その後19年にわたって諸国を放浪した。狄での亡命生活中に叔隗(重耳の妾となった季隗の姉)を妻とした。叔隗は後の趙の礎を築く趙盾を生んだ。
紀元前645年、晋で重耳の弟である恵公が即位した。恵公が声名のある重耳の帰国を恐れて刺客を送ってきたため、重耳とともに斉へ逃れた。
関連項目
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