送毛山道
歴史
19世紀
19世紀後半、江戸幕府は蝦夷地の道路開削を計画し、その実行を各地の場所請負人たちに命じた[1]。送毛山道の工事については送毛番屋の番人である茂吉に声が掛かり、さらにその茂吉は岩内の出稼人である柳川善蔵に仕事を託した[1]。
1857年(安政4年)、柳川善蔵は茂吉と、浜益アイヌ脇乙名のシカノスケとともに山道の踏検調査を実行[1]。ルート選定時にアイヌが参加しているところから、山道はもともと存在していた浜益アイヌの生活道路をなぞって造られたと考えられる[4]。その後、柳川は漁場出稼人や[1]、浜益アイヌを雇い入れ[5]、同年9月に工事を完成させた[1]。なお松浦武四郎が、開削間もないこの山道を通った旨を日誌に記している[1]。
ギャラリー
送毛側入口
山神碑
毘砂別冷水波切不動堂
毘砂別園地
毘砂別側入口
脚注
参考資料
- 『浜益村史』1980年3月。
- 『石狩の碑 第五輯 浜益区編』石狩市郷土研究会〈いしかり郷土シリーズ〉、2015年12月。
- 伊藤駿 (2023年7月6日). “ディープに歩こう 第3部 石狩・浜益 (8) 巨木「千本ナラ」”. 北海道新聞: 地域の話題:札幌 17面
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