長谷部栄二郎
経歴
1887年(明治20年)10月28日、宮城県亘理郡亘理村の尾形家に生まれる[2]。
幼少時に自家が火災で焼失したため、両親とともに1890年(明治23年)、北海道有珠郡伊達村に移住する[2]。これは、本家の尾形弥平が伊達邦成の家臣で、1873年(明治6年)に伊達へ入植していたのを頼ったものであった[2]。
やがて成長した栄二郎は、札幌の帝国製麻琴似製線工場に就職[2]。そして当別町の神官・長谷部多八の3女である亀菊と結婚し、長谷部家の婿養子となった[1]。また工場勤務のかたわらで俳人として頭角を現し、『北海タイムス』の俳句の選者を務めた[2]。
1921年(大正10年)、牛島滕六が句誌『時雨』を創刊すると、これに参画した[3]。
沼田・栗沢・名寄・本別と北海道各地の工場長を歴任したのち、1931年(昭和6年)、28年間にわたって勤務した帝国製麻を退職[2]。以降は神職に身を捧げつつ、俳壇での活動を続けた[2]。
碑
長谷部虎杖子の句碑は、小樽市の御膳水宮の隣や、2代目宮司を務めた[5]西当別神社の境内にある。
車組むや 一滴の油 地に開く — 小樽市の句碑
馬よゆこう 涼しきうちの 一仕事 — 西当別神社の句碑
また西当別神社には、神職としての栄二郎を顕彰した碑も建てられている。
小樽市の句碑
西当別神社の句碑
宮司故長谷部栄二郎顕彰之碑
脚注
- 当別町史 1972, pp. 714–715.
- 当別町史 1972, p. 715.
- 現代俳句協会 - 車組むや一滴の油地にひらく 長谷部虎杖子 評者: 十河宣洋
- 小樽市の御膳水宮の隣にある句碑の説明版より。文面は画像で参照可能。
- 当別町史 1972, p. 719.
This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.