閔丙奭
生涯
前半生
1858年、忠清南道懐徳郡に生まれる。1879年に科挙の丙科に合格し、閔妃に代表される驪興閔氏の下で出世街道を歩んだ。1882年の壬午軍乱では閔妃擁護に回り、以降彼女から寵愛を受けるようになった。
官僚
1884年、成均館の責任者である大司成と都承旨の要職に奉じられた。また、甲申政変の際大日本帝国へ亡命した金玉均の暗殺計画を立てている。閔妃と興宣大院君との対立が悪化したため一時期政治から身を引いていたが、1888年に礼曹の判書に就き復帰した。1889年から5年間、平安道にて監使を務めたが、その政治のあり方は趙秉世から批判された。
驪興閔氏自体反日思想であったため、初めのころは閔も日本を快く思っていなかった。日清戦争が勃発すると清と内通し、朝鮮から日本勢力を追い出そうとしたが失敗、流謫された。三国干渉後釈放された閔は、露館播遷の親露派・李完用との繋がりを重要視され、内閣に起用されている。
大韓帝国期
閔氏の親族に当たる閔は、閔妃殺害後も要職を担った。朝鮮における日本の影響が色濃くなると、李完用とともに親露派から親日派へと移った。
1897年、大韓帝国の建国が宣言されると、宮内府大臣や憲兵部隊司令など要職を歴任、さらに大韓天一銀行や農産業会社など、金融界、産業界でも活躍した。1905年には伊藤博文を招聘するため日本に渡っている。
脚注
- 『子爵斎藤実伝. 第2巻』(斎藤子爵記念会, 1942) p784
- 김삼웅 (1995-07-01). 친일정치 100년사. 서울: 동풍. p. 145. ISBN 978-89-86072-03-7
- 임종국 (1991-02-01). 실록 친일파. 서울: 돌베개. p. 80. ISBN 89-7199-036-8
- 성강현 (2004年3月18日). “‘조선공로자명감’친일 조선인 3백53명 기록 - 현역 국회의원 2002년 발표한 친일명단 일치 상당수”. 일요시사 2008年4月16日閲覧。
- 성강현 (2004年3月18日). “3백53명 중 2백56명 명단”. 일요시사 2008年4月16日閲覧。
- 이민정 (2007年5月2日). “재산 환수되는 친일파 9인은 누구? - 권중현·이완용 등 을사오적 중 일부 포함”. 오마이뉴스 2008年5月22日閲覧。
- 임은진 기자 (2007年11月22日). “왕족 이해승 등 친일파 재산 410억 국가귀속 - 이해승ㆍ이지용ㆍ유정수ㆍ고희경ㆍ민영휘ㆍ민병석ㆍ송병준ㆍ한창수 등”. 연합뉴스 2007年11月22日閲覧。
- 김태종 기자 (2007年11月27日). “친일파 후손, 재산환수 불복 소송”. 연합뉴스 2007年11月27日閲覧。
参考文献
- 반민족문제연구소 (1993-02-01). 친일파 99인 1. 서울: 돌베개. p. 민병석 : 조선인 대지주로 손꼽힌 민씨 척족의 대표 (서영희). ISBN 978-89-7199-011-7
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