関天培
生涯
江蘇省淮安府山陽県に生まれた。若い頃は一兵卒から立身し、長じては道光年間の清朝において重きをなした。『籌海初集』などを残した。江南提督、従一品広東水師提督を歴任。人望が厚く、身分をこえて慕われたという。その生き様は、のちの曽国藩らにも影響を与えた。
林則徐によるアヘン禁止が布かれた際は、これに協力し虎門でアヘン処分を敢行。イギリスとの主戦論をいち早く支持した。阿片戦争(アヘン戦争)勃発後、康熙年間に築かれていた虎門要塞を拡充、整備。広東防備と強化を唱え、イギリス艦隊を迎え撃つ。道光21年(1841年)2月6日、チャールズ・エリオット率いるイギリス軍の精鋭部隊と抗戦。虎門の戦いでは凄まじい攻防のなか自らも虎門要塞で奮戦し、最期は攻めかかる敵軍の一隊をおびき寄せ、もろとも玉砕したと伝えられている。その戦いぶりに感銘を受けた敵軍イギリス艦隊(ブレンハイム号)は弔砲を鳴らし、その死を悼んだ[1][2]。淮安には碑があり、林則徐は書を贈ったという。
その他
中国映画『阿片戦争』(1997年)では、林則徐の最大の理解者として描かれ、また出陣の際は自らの歯を抜歯して遺すように、と伝えた場面が登場している。
脚注
- 陳舜臣『実録アヘン戦争』中公新書、1971年、p.189
- 陳舜臣『中国の歴史(七)』講談社、1991年、p.117
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