青地元珍
青地 元珍(あおち もとたか[1])は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。
凡例 青地 元珍 | |
|---|---|
| 時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
| 生誕 | 永禄3年(1560年) |
| 死没 | 寛永10年9月29日(1633年10月31日) |
| 改名 | 千代寿(幼名)、元珍 |
| 別名 | 四郎左衛門尉(通称)、光綱 |
| 官位 | 内匠助(受領名) |
| 主君 | 佐久間信盛、織田信長、信孝、蒲生氏郷、秀行、前田利長、利常 |
| 藩 | 加賀藩士 |
| 氏族 | 青地氏 |
| 父母 | 青地茂綱 |
| 子 | 等定 |
生涯
織田家臣時代
近江国の国人・青地茂綱の長男として誕生。元亀元年(1570年)に父が志賀の陣で戦死したことにより家督を相続。当時、元珍は幼少であったが領地や与力・家来はそのまま安堵された[2]。
元亀2年(1571年)12月に織田氏の家臣・佐久間信盛の与力となる[3]。以後、信盛与力として天正元年(1573年)の槇島城の戦い、天正4年(1576年)の天王寺の戦いなどに参加している[4]。
天正8年(1580年)に信盛が19ヶ条の折檻状により織田家を追放されると、近江衆として織田信長の旗本に転身。天正9年(1581年)1月に安土で行われた江州衆による左義長に名を連ね、同年の第二次天正伊賀の乱にも参陣した[4]。
脚注
- 名の読みは『朝倉家録軍談』による
- 『青地文書』
- 『吉田文書』
- 『信長公記』
- 『加賀藩士稿』
- 『青地系図帳』
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