頼采真

頼 采真(らい さいしん)は、江戸時代後期の広島藩士。は舜燾、字は子晦、采真は号。通称は佐一郎[1]

 
凡例
頼采真
時代 江戸時代後期
生誕 寛政3年2月4日1791年3月8日
死没 嘉永3年5月8日1850年6月17日
別名 佐一郎(通称[1]、子晦(字)
墓所 広島県広島市多聞院
主君 浅野重晟斉賢斉粛
広島藩
氏族 頼氏
父母 頼杏坪、加藤静古娘・恭子
香川氏娘・かね子
正義ら3男2女

略伝

広島藩儒であった頼杏坪の長男、いわゆる杏坪頼家の嫡子[1]。母は藩儒加藤十千の孫にあたり、加藤静古の娘である恭子(玲瓏子)[2]。杏坪夫妻は結婚当初から杏坪の長兄夫婦である頼春水頼梅颸、その子である頼山陽と同居しており、広島頼家の居邸である杉の木小路の武家屋敷(現頼山陽史跡資料館)で采真は生まれる[3]。のち杏坪一家は独立する[3]

采真は儒学を父母より学ぶ[1]。杏坪の兄つまり采真の叔父にあたる春水の広島頼家、同じく叔父の頼春風の竹原頼家、彼らの友人達の儒者らと交わる。

父の杏坪は藩儒から平士として藩務についたが、采真は藩儒にはならず平士として藩に仕え始める[1]文化5年(1808年)、藩主浅野重晟の参勤交代に隨った杏坪に連れられ江戸に向かう[4]。文化6年(1809年)帰藩。

文政5年(1822年)15石3人扶持を給せられる[5][6]

父の杏坪の藩務に幾つか携わっている。文政元年(1818年)『芸藩通志』の編纂を杏坪が命じられた際には采真もこれに加わり、文政8年に完成している[7]。文政11年(1828年)、杏坪が三次町奉行となった際に、采真は藩命によりその勘定所吟味役格として郡町事務を務めた[8]

天保元年(1830年)、父の杏坪が隠居、そのため采真はいわゆる杏坪頼家の家督を継ぎ知行140石を給せられ、広島に戻る[8][6]。同年、銀奉行、勘定奉行付で金銀の出納を管理する役職[9]に任ぜられ、同年藩より白島に屋敷を拝領する[8][6]。天保3年(1832年蔵奉行[10]

天保5年(1834年)から天保7年(1836年)まで江戸勤番[11]、天保8年(1837年)から 弘化元年(1844年)まで大阪蔵屋敷留守居役(番目付)[12]。大阪時代には当地の儒者と交わる[1][13]。弘化2年(1845年)普請奉行となった[14]。知行は190石[13]

嘉永3年(1850年)普請奉行時に病死[1][13]。享年60[1]。墓所は広島安養院(現在の多聞院[1]

妻は矢野八幡宮神主香川氏の娘・かね子[13]。子は三男二女、嫡子は長男の頼正義。

家系

頼惟清
 
頼春水
 
頼山陽
 
頼聿庵
 
 
 
 
 
 
 
 
 
頼支峰
 
 
 
 
 
 
 
頼三樹三郎
 
 
 
 
 
頼春風
 
頼景譲
 
頼達堂
 
 
 
 
 
 
 
 
頼小園
 
 
 
 
 
 
頼杏坪
 
頼采真
 
頼正義
 
 
 


脚注

  1. 手島 1925, p. 10.
  2. 重田 1908, p. 36.
  3. 重田 1908, p. 37.
  4. 木崎 1933, p. 9.
  5. 木崎 1933, p. 13.
  6. 重田 1908, p. 230.
  7. 木崎 1933, p. 14.
  8. 木崎 1933, p. 16.
  9. 銀奉行”. weblio. 2015年11月5日閲覧。
  10. 木崎 1933, p. 17.
  11. 木崎 1933, p. 19.
  12. 木崎 1933, pp. 19–20.
  13. 重田 1908, p. 231.
  14. 木崎 1933, p. 20.

出典

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