高紹徳
経歴
天保年間、太原王に立てられた。文宣帝は太子高殷の漢人趣味を嫌い、高殷を廃位して紹徳を立てようと考えていたが、実現しなかった。天保8年(557年)、開府儀同三司の位を受けた。河清元年(562年)、武成帝は李祖娥が娘を殺したことに激怒して、「おまえがわが娘を殺すなら、わたしはおまえの子を殺してやる」と言った。武成帝は紹徳を召し出すと、「おまえの父が私を打ったとき、おまえは救けに来なかった」と罵った。武成帝は刀の柄で紹徳を突き殺し、みずから遊豫園に遺体を埋めた。
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