鮮于世栄

鮮于 世栄(せんう せいえい、生年不詳 - 577年)は、中国東魏北斉軍人本貫漁陽郡[1][2]

経歴

懐朔鎮将の鮮于宝業の子として生まれた。興和2年(540年)、高歓の下で副都督となった。平西将軍に転じ、石門県子の爵位を受けた。天保元年(550年)、北斉が建国されると、世栄は文宣帝の下で柔然稽胡を討った。天保6年(555年)、高岳の下で郢州を平定し、持節・河州刺史に任じられ、朝歌県を食邑とした。まもなく丞相府諮議参軍となった。皇建年間、儀同三司・武衛将軍の位を受けた。天統2年(566年)、開府儀同三司の位を加えられ、鄭州刺史に転じた[1][2]武平4年(573年)、南兗州刺史として信州の乱を平定した[3][4][5]。領軍将軍となり、食邑を上党郡に移された。武平5年(574年)、高思好の乱の平定に従い、義陽王に封じられた[1][2]

武平7年(576年)、後主晋陽に幸すると、世栄は本官のまま尚書右僕射の事務を執り行い、北平王高貞を補佐して北宮留後をつとめた。後主が平陽を包囲すると、世栄は領軍将軍の号を受けた。承光元年(577年)、北周の軍がに侵攻してくると、世栄は領軍大将軍・太子太傅に任じられて、城西で抗戦したが、敗れて捕らえられた。屈服しなかったため、北周の武帝により殺された[1][2]

子に鮮于子貞があり、武平末年に仮儀同三司となった[1][6]

脚注

  1. 北斉書 1972, p. 539.
  2. 北史 1974, p. 1930.
  3. 氣賀澤 2021, p. 134.
  4. 北斉書 1972, p. 106.
  5. 北史 1974, p. 294.
  6. 北史 1974, p. 1931.

伝記資料

参考文献

  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
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