鹿児島島津家墓所
概要
薩摩藩主・島津宗家と有力な支族5家の歴代の墓所7か所が、2020年に「鹿児島島津家墓所」として国の史跡に指定された。
国の史跡に指定されたのは、宗家の墓所(鹿児島市)のほか、越前(重富)島津家墓所(姶良市)、加治木島津家墓所(姶良市、2か所)、今和泉島津家墓所(指宿市)、垂水島津家墓所(垂水市)、宮之城島津家墓所(さつま町)であり、鹿児島県内の4市1町にまたがる[2]。
各墓所

越前(重富)、加治木、今和泉、垂水の4家は「一門家」と呼ばれ、徳川家でいえば「御三家」に相当する家格の高い家であり、宗家の世継が絶えた場合はこれらの家から当主を出せるとされていた。宮之城家は一門家に次いで家格の高い「一所持」(いっしょもち)の家柄であり、その中でも上位の4家の一つであった[2][3]。
越前(重富)島津家
越前(重富)島津家は元文2年(1737年)、島津氏22代島津継豊の弟忠紀を初代とし、断絶した越前島津家を復興するという形で始まった。墓所は姶良市の紹隆寺跡にある。同墓所には16代から19代および21代から24代の墓塔がある(20代の墓塔は福昌寺にあり)[5]。
島津家墓塔の特色

島津宗家の墓塔は、塔の種別としては15世紀以来宝篋印塔を用い、石材は山川石を用いている。墓塔は時代とともに大型化・装飾化の一途をたどり、18代当主(初代薩摩藩主)島津家久の墓塔(1638年)において、近世大名墓塔としての形式が確立。以後は幕末の島津斉彬墓塔まで、11代、200年以上にわたって、同じ形式が引き継がれた[7]。
鹿児島地方では、五輪塔よりも宝篋印塔に一段高いステータスが認められていた。宗家当主夫妻の墓塔には山川石製の大型の宝篋印塔が用いられる一方、一門家を含む家臣の墓塔は、塔の規模・形式、使用する石材種などにおいて差がある。いわば、墓塔はステータスシンボル化し、宗家とそれ以外との階層化を示している。たとえば、越前家や垂水家の墓塔では形式は宝篋印塔が用いられるが、規模は本宗家のものより小さく、石材は山川石ではなく凝灰岩である。加治木家墓所では宝篋印塔ではなく五輪塔が用いられ、宮之城家墓所では石廟(祠形)が用いられている[8]。
所在地一覧
鹿児島島津家墓所として史跡に指定されている所在地の一覧は以下のとおりである。所在地はすべて鹿児島県内である。
| 名称 | 所在地 |
|---|---|
| 島津家墓地 | 鹿児島市池之上町1940番地[9] |
| 今和泉島津家墓地 | 指宿市岩本字麓3022番地1(他3筆) |
| 宮之城島津家墓地 | 薩摩郡さつま町虎居5255番(外1筆) |
| 越前島津家墓地 | 姶良市大字平松6196番地[5] |
| 加治木島津家墓地 | 姶良市加治木町日木山123番地3(能仁寺墓地)[5] 姶良市加治木町木田2841番地(長年寺墓地)[5] |
| 垂水島津家墓地 | 垂水市田神字上ノ平添328番地2[2] |
脚注
- “鹿児島島津家墓所”. 文化庁. 2021年12月31日閲覧。
- “垂水島津家墓所”. 垂水市. 2021年2月23日閲覧。
- “歴史散策パンフレット 宮之城島津家を学ぼう”. さつま町. 2021年2月23日閲覧。
- 松田朝由 2004, p. 91.
- “国指定文化財”. 姶良市. 2021年2月23日閲覧。
- “篤姫の歴史”. 指宿市考古館. 2021年2月23日閲覧。
- 松田朝由 2004, p. 91,98,101.
- 松田朝由 2004, p. 107,108.
- “新たに指定された文化財”. 鹿児島市 (2020年5月28日). 2021年12月31日閲覧。
参考文献
- 松田朝由「島津本家における近世大名墓の形成と特質」『縄文の森から』第2巻、鹿児島県立埋蔵文化財センター、91-108頁、2004年3月。
