黒葛原淳一
黒葛原 淳一(つづらばら じゅんいち、1961年2月26日 - )は、日本の元バレーボール選手。
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| 基本情報 | ||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1961年2月26日(63歳) | |||
| 出身地 | 宮崎県北諸県郡三股町 | |||
| ラテン文字 | Junichi Tsuzurabara | |||
| 身長 | 178cm | |||
| 体重 | 70kg | |||
| 血液型 | A型 | |||
| 選手情報 | ||||
| 愛称 | ツッパ | |||
| ポジション | レシーバー | |||
| 指高 | 225cm | |||
| スパイク | 310cm | |||
| ブロック | 300cm | |||
人物
両親がバレーボール経験者であり、自身も小学校6年生次に松平康隆監督率いる男子バレーボール日本代表がミュンヘンオリンピックで優勝した際にTBS系列で放送されたテレビ番組『ミュンヘンへの道』に感動してバレーボールを始めた。
宮崎県立都城工業高等学校を経て日本体育大学へ進学。バレーボール部でプレイする一方で『バレーボールは大学で引退して、故郷(宮崎)で中学校教師になるつもりでいた』ところに、日本バレーボールリーグの名門:日本鋼管からスカウトされ、1983年4月に入社[1]。
日本鋼管バレーボール部時代は主にレシーバーとしての起用が多く、今で言うリベロプレイヤーの魁とも言われた選手であったという。9年間プレーした後、現役を引退してチームのマネージャーに転身。野村健二監督体制を蔭で支えたが、1994年の日本バレーボールリーグがVリーグへと衣替えする前に日本鋼管本社がバレーボールから撤退する決定を行い、バレーボール部が解散する。黒葛原はマネージャーとして部の解散式の司会を務めた[1]。
それ以降は社業に専念するようになるが、請われればバレーボール教室の講師として各自治体や学校などで指導を行ったこともある[2]。
日本鋼管と川崎製鉄の合併により誕生したJFEスチールでは、黒葛原は大阪支社の大阪建材プロジェクト営業部プロジェクト室長及び土木建材室長を歴任し、2011年4月より四国支社支社長に就任した。
脚注
- バレーボールで学んだ“泥臭さ” ビジネス香川 2011年8月18日付
- 小値賀ニュース 長崎県北松浦郡小値賀町広報 1998年10月22日参照
関連項目
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