オズワルド・アルディレス
オズワルド・アルディレス(スペイン語: Osvaldo Cesar Ardiles, 1952年8月3日 - )は、アルゼンチン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。愛称は「オジー」。弁護士資格を持つ事でも知られる。
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|---|---|---|---|---|---|---|
![]() (2006年) | ||||||
| 名前 | ||||||
| 本名 |
オズワルド・セサル・アルディレス Osvaldo César Ardiles | |||||
| ラテン文字 | Osvaldo Ardiles | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 |
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| 生年月日 | 1952年8月2日(71歳) | |||||
| 出身地 | コルドバ | |||||
| 身長 | 170cm | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF (CMF) | |||||
| ユース | ||||||
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| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1973 |
| 14 | (3) | |||
| 1974 |
| 16 | (2) | |||
| 1975-1978 |
| 113 | (11) | |||
| 1978-1988 |
| 236 | (16) | |||
| 1982-1983 |
→ | 14 | (1) | |||
| 1985 |
→ | 1 | (0) | |||
| 1988 |
| 5 | (0) | |||
| 1989 |
| 8 | (0) | |||
| 1989 |
| 5 | (1) | |||
| 1989-1991 |
| 2 | (0) | |||
| 代表歴 | ||||||
| 1975-1982 |
| 51 | (8) | |||
| 監督歴 | ||||||
| 1989-1991 |
| |||||
| 1991-1992 |
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| 1992-1993 |
| |||||
| 1993-1994 |
| |||||
| 1995 |
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| 1996-1998 |
| |||||
| 1999 |
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| 2000-2001 |
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| 2001 |
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| 2002-2003 |
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| 2003-2005 |
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| 2006 |
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| 2007 |
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| 2008 |
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| 2012 |
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経歴
選手時代

アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップで優勝したアルゼンチン代表の主力としてダニエル・パサレラ、マリオ・ケンペスらとともにチームを牽引、6試合に出場して、1次リーグのフランス戦、2次リーグのポーランド戦でアシストを決めるなど[1]、地元開催のワールドカップで同国の初優勝に貢献、大会最優秀MFに選出された[2]。1982 FIFAワールドカップでも全5試合にフル出場、ハンガリー戦で1得点を挙げた[1]。また当時の代表は「エース以外の背番号はアルファベット順につける」という慣習があった為、『背番号1を付けたフィールドプレイヤー』としても有名であった。
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1978年のワールドカップ後に、リカルド・ビジャとともに、ふたり合わせて75万ポンドの大金でイングランドのトッテナム・ホットスパーに移籍、トッテナムで約10シーズンプレーした 。1979年ジャパンカップ(現キリンカップ)で来日、日本代表と対戦した。1980-81シーズンにはFAカップ獲得に貢献、1981-82シーズンのFAカップでも準決勝のレスターシティ戦で1ゴールを挙げるなど、決勝進出に貢献[3]。 同年、イングランドとアルゼンチンの間にフォークランド紛争が発生したため、混乱を避けるためにフランスのパリ・サンジェルマンにレンタル移籍した。トッテナムでは1984年にUEFAカップ優勝に貢献。その後クイーンズ・パーク・レンジャーズやアメリカで短期間プレーした後、現役を引退した。2008年トッテナムの殿堂入りを果たす[4]。
監督時代
1990年、イングランド2部のスウィンドン・タウンの監督に就任した。それまでのキック&ラッシュの攻撃スタイルを一新し、南米的なパスサッカーを試みた。1部昇格を決めたものの、クラブの不正経理の疑いで昇格は取り消された。ニューカッスル・ユナイテッドの監督は1年も経たずに解雇されたが、ウェスト・ブロムウィッチでは1部昇格を果たした。そして1993年、混乱が続いていた古巣トッテナム・ホットスパーの監督に就任した。ドイツ代表のユルゲン・クリンスマンやルーマニア代表のゲオルゲ・ポペスクらを獲得したが、チーム状態は良くならなかった。成績は残せなかったが、ファンに愛された監督だった。
メキシコを経て、1996年には清水エスパルスの監督として来日。その年のナビスコカップでチーム初のタイトル獲得に貢献した。1998年は、ファーストステージでは、優勝争いに加わり2位に終わる。セカンドステージでは、5位に終わる。リーグ戦終了後、天皇杯を前に解任された。1999年は、クロアチアのNKディナモ・ザグレブの監督に就任したが、1999年の夏に成績不振を理由に解任される。
2000年には横浜F・マリノスの監督に就任し、その年の第1ステージで優勝。2ndステージでは、調子が上がらず5位に終わる。チャンピオンシップでは、鹿島アントラーズに敗北。翌2001年に成績不振に陥り、また外国人選手の補強を巡ってフロントと対立し解任された。
横浜F・マリノスを去ったあと、アル・イテハドの監督に就任したが、成績不振で解任された。
2002年には、ラシン・クルブの監督に就任。
2003年には東京ヴェルディ1969の監督に就任。2004年度天皇杯で、東京Vに8年ぶり(東京移転後は初めて)のタイトルをもたらした。しかし2005年シーズンに大量失点試合が響き、7月成績不振の責任を取って解任された。
2012年、J2・FC町田ゼルビアの監督に就任したが、2012シーズンのJ2で最下位となりJFLへの降格が決定。同年11月17日、監督を解任された[5]。
エピソード
- トッテナム在籍中、イギリスとアルゼンチンの間でフォークランド紛争が起こったが、この時トッテナムファンから「オジーが残ってくれるなら、フォークランドはアルゼンチンにくれてやらなくもない」といった意味の横断幕が出るほど、トッテナムのサポーターから愛された存在だった。
- 1981年に公開されたシルヴェスター・スタローン主演映画、『勝利への脱出』にペレ、ボビー・ムーア、マイク・サマビー、ジョン・ウォークら当時のサッカー界のスター選手達と共に連合軍捕虜チームのプレーヤー役で出演、1ゴールを決めた。
- 1999年のクロアチア・ザグレブの監督就任時には、当時、三浦知良が所属していたものの「カズのことは知っているが、戦力とは考えていない」とメディアを通して発言した。結局、三浦は退団することとなった。
- 2012年年の町田は、選手の入団が決まった後に、監督人事を行っていたこともあり[6]。東京ヴェルディ、清水エスパルスの時の教え子である戸田和幸に対して、2月のキャンプにて戦力外通告を言い渡し、ほぼ起用しなかった[6]。
- 趣味は読書、チェス、オペラ観賞である。
所属クラブ
- 1969年 - 1973年
インスティトゥートACコルドバ - 1974年
CAベルグラーノ - 1975年 - 1978年
CAウラカン - 1978年 - 1988年
トッテナム・ホットスパーFC
- 1982年 - 1983年
パリ・サンジェルマンFC (期限付き移籍) - 1985年
セントジョージFC (期限付き移籍)
- 1982年 - 1983年
- 1988年
ブラックバーン・ローヴァーズFC - 1989年
クイーンズ・パーク・レンジャーズFC - 1989年
フォートローダーデール・ストライカーズ
指導歴
- 1989年 - 1991年
スウィンドン・タウンFC - 1991年 - 1992年
ニューカッスル・ユナイテッドFC - 1992年 - 1993年
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFC - 1993年 - 1994年
トッテナム・ホットスパーFC - 1995年
CDグアダラハラ - 1996年 - 1998年
清水エスパルス - 1999年
クロアチア・ザグレブ - 1999年 - 2001年
横浜F・マリノス - 2001年 - 2002年
アル・イテハド - 2002年 - 2003年
ラシン・クルブ - 2003年 - 2005年
東京ヴェルディ1969 - 2006年
ベイタル・エルサレムFC - 2007年
CAウラカン - 2008年
セロ・ポルテーニョ - 2012年
FC町田ゼルビア
個人成績
| 年度 | クラブ | リーグ | 背番号 | リーグ戦 | リーグカップ | カップ戦 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 1970 | インスティトゥート | プリメーラ | |||||||
| 1971 | |||||||||
| 1972 | |||||||||
| 1973 | |||||||||
| 1974 | ベルグラーノ | 16 | 2 | ||||||
| 1975 | ウラカン | ||||||||
| 1976 | |||||||||
| 1977 | |||||||||
| 1978 | |||||||||
| 1978-79 | トッテナム | FL1部 | 38 | 3 | |||||
| 1979-80 | 40 | 3 | |||||||
| 1980-81 | 36 | 5 | |||||||
| 1981-82 | 26 | 2 | |||||||
| 1982-83 | 2 | 0 | |||||||
| 1982-83 | パリSG | ディヴィジョン・アン | |||||||
| 1983-84 | トッテナム | FL1部 | 9 | 0 | |||||
| 1984-85 | 11 | 2 | |||||||
| 1985-86 | 23 | 1 | |||||||
| 1986-87 | 25 | 0 | |||||||
| 1987-88 | 28 | 0 | |||||||
| 1987-88 | ブラックバーン | FL2部 | 5 | 0 | |||||
| 1988-89 | クイーンズ・パーク | FL1部 | 8 | 0 | |||||
| 1989-90 | スウィンドン・タウン | FL2部 | 2 | 0 | |||||
| 1990-91 | 0 | 0 | |||||||
| 通算 | プリメーラ | ||||||||
| FL1部 | 248 | 16 | |||||||
| FL2部 | 5 | 0 | |||||||
| ディヴィジョン・アン | |||||||||
タイトル
選手時代
- トッテナム・ホットスパーFC
- FAカップ:2回(1980-81,1981-82)
- FAコミュニティ・シールド:1回(1981)
- UEFAカップ:1回(1983-84)
- アルゼンチン代表
- FIFAワールドカップ:1回(1978)
- 個人
- ディビジョン2PFA年間ベストイレブン:1回(1979)
- フットボールリーグ伝説の100人(1998)
- ゴールデンフット賞(2013)
脚注
- “Ossie Ardiles Nationalteam”. 2023年9月12日閲覧。
- Ardiles 2009, p. 6
- ワールドカップ参加の為決勝には出場せず。
- “Hall of Fame”. Tottenhamhotspur.com. 2010年6月29日閲覧。
- “オズワルド・アルディレス監督 退任のお知らせ”. FC町田ゼルビアオフィシャルサイト 2012年11月18日閲覧。
- “置かれた環境で悩むすべての人へ 干されてもがき、信念を貫いた元日本代表の言葉”. SOCCERKING. 2023年9月12日閲覧。
関連項目
外部リンク
- オズワルド・アルディレス - National-Football-Teams.com (英語)
- オズワルド・アルディレス - Soccerway.com (英語)
- オズワルド・アルディレス - Soccerbase.comによる監督データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - FootballDatabase.eu (英語)
- オズワルド・アルディレス - WorldFootball.net (英語)
- オズワルド・アルディレス - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- オズワルド・アルディレス - FIFA主催大会成績 (英語)
- オズワルド・アルディレス - J.League Data Siteによる監督データ
- オズワルド・アルディレス - レキップ (フランス語)
