キャンセル・カルチャー

キャンセル・カルチャー(英語: cancel culture)は、2010年代後半から使われるようになった用語で、容認されない言動を行ったとみなされた個人が排斥・追放されたり解雇されたりする文化的現象を表す[1][2][3][4]。この排斥は対象者の社会的・職業的な領域に及ぶこともあり、有名人に関するものが最も注目されやすい[5]。排斥された者は「キャンセルされた」と言う[6][7]。

キャンセル・カルチャーは主にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)上に見られる。抗議行為自体は「canceling[注釈 1]」(キャンセリング)と呼ばれ、抗議の対象になることは「canceled」(キャンセルド)と呼ばれる[9]。また、欧米では現代の著名人だけでなく、過去の戦争や人種差別思想を理由に数十年、数百年前の軍人や政治家もキャンセルの対象となっており、彼らの銅像や記念碑に対する抗議運動などが展開されている[10][11]。コールアウト・カルチャーがエスカレートしたものがキャンセル・カルチャーとする見方もある[12]。

キャンセル・カルチャーは否定的な意味合いを持ち[7]、キャンセル・カルチャーに批判的な者はそれが非生産的であり真の社会変化をもたらさず、ネットいじめに等しいなどと主張する[13][14]。一方で、キャンセル・カルチャーの存在を疑問視する者もおり[15]、そうした人々は同じような形の排斥運動は「キャンセル・カルチャー」という言葉が生まれるずっと前から存在していたと主張する[14][16][17]。

起源

2015年頃までに、「キャンセル」という概念はツイッターを利用する黒人の間で広まり、人物や作品への支援を止める「個人的な」判断を指すようになった[18][19][20]。ニューヨーク・タイムズ紙のジョン・エンゲル・ブロムウィッチによると、キャンセルのこうした用法は「完全に投資を止めること」を意味したという[3][21]。その後、キャンセルという言葉はキャンセル対象者に対する怒りに満ちたネット上での反応を指すようになった[22]。やがて個別のキャンセル事例が蓄積されて群集心理が形成されていき、キャンセルは「文化」とみなされるようになった[23]。

キャンセル・カルチャーに関する議論は2019年後半から増え始めた[24][25]。2020年に入ると、「政治的に誤っている」表現に対する過剰な対応だとアメリカの保守派がみなした反応を簡潔に表す表現となった[26][27][28][29][30]。

アメリカ合衆国

元アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマは「本当に良いことをする人も失敗することがある。あなたが戦っている人は子供を愛しているかもしれないし、あなたと特定のことを共有しているかもしれない」「世の中のために良いことをしたと気分が良くなって、あとは傍観者を決め込むやり方で世の中を変えることなどできない」と述べ、ソーシャルメディアのキャンセル・カルチャーに対して警告した[27]。

元アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは2020年7月4日のアメリカ独立記念日を祝う式典において、キャンセル・カルチャーを非難した[10]。また、一部のメディアもキャンセル・カルチャーについて、萎縮効果を誘発しかねないと主張した[31]。

教皇フランシスコは、キャンセル・カルチャーは「イデオロギーの植民地主義の一形態であり、表現の自由の余地を残さないもの」であり、「全てのアイデンティティの感覚をキャンセルすることになる」と述べた[32][33][34]。

ブラック・ライヴズ・マターの共同設立者であるパトリッセ・カラーズは、社会運動はインターネットに接続したり、誰かをキャンセルするために抗議したりするだけではないと述べている[35]。

『ヴァイス』の記者コナー・ガレルは、キャンセル・カルチャーが「キャンセルされた人の生活と快適性に具体的または意味のある影響を与えることはほとんどない」と述べている[36]。

2023年にフロリダ州議会の上院議員が「Ultimate Cancel Act(究極のキャンセル法)」と名付けられた法案を州選挙管理委員会に提出した。内容としては、「過去に奴隷制や強制労働を提唱または支持していた」政党の届け出と地位を「直ちに取り消す」ことが定められており、19世紀の南北戦争で奴隷制を支持していたが、キャンセルカルチャーを支持する左派活動家の支持する民主党へキャンセルカルチャーを適応させる法律である。法案を提出した上院議員は「左派活動家はここ何年にもわたり、過去の言動を理由に人や企業を『キャンセル』攻撃しており、この基準を使えば同じ理由で民主党そのものをキャンセルしないのは偽善といえる」と指摘した[37]。

2021年、太平洋戦争中の日本軍の慰安婦と雇用主との間の契約について分析した論文を発表したハーバード大学のマーク・ラムザイヤー教授に対し、不正研究などを理由に論文の撤回を求めて署名活動が行われた。最終的に不正の嫌疑は晴れたが、SNSを中心に教授に対する誹謗中傷が繰り返された。この時、オープンレターなどを通じて運動を主導したのは、複数の大学に籍を置く学者達だった。賛同者にはノーベル経済学賞の受賞者もいた。一連の出来事をキャンセル・カルチャーとして批判する者もいる[38][39]。

ミシガン大学のリサ・ナカムラは「パンデミックで人々がSNSに割く時間がさらに増え、ストレスのはけ口としてキャンセルのターゲット探しが活性化している。時として、人は知らずに間違いを犯すこともあります」と述べている。

著名人によるオープンレターでの批判

『USAトゥデイ』の記者ダルヴィン・ブラウンは、J・K・ローリングなど153人の公的人物によって署名され、ハーパーズ・マガジンに掲載された「正義と開かれた議論に関する書簡」を、キャンセル・カルチャーに関する議論の「頂点」を示すものとして説明している[26]。この書簡は、「反対意見への不寛容、公に辱めることと排斥の流行、複雑な政治問題を盲目的な道徳的確実性で解決する傾向」に反対する意見を示した[40][28][41]。

世論

ピュー研究所が実施した調査では、10,000人のアメリカ人を対象に、キャンセル・カルチャーに関して、特にキャンセル・カルチャーという用語を誰が聞いたことがあるか、アメリカ人がキャンセル・カルチャーをどのように定義しているかについて、一連の様々な質問が行われた[42]。2020年9月、アメリカ人の44%は、このフレーズについて少なくともかなりの量を聞いたと述べている。一方、22%は多くのことを聞いており、32%は全く聞いていないと述べている[42]。18–29歳のアメリカ人の43%は、キャンセル・カルチャーについて多くのことを聞いているが、65歳以上のアメリカ人の12%だけが、多くのことを聞いた[42]。更に、同じ調査の中で、キャンセル・カルチャーについて多くのことを聞いたアメリカ人の44%に、キャンセル・カルチャーをどのように定義したかを尋ねた。それらのアメリカ人の49%は、人々が他人に説明責任を負わせるために取る行動と説明し、14%はキャンセル・カルチャーを表現や歴史の検閲として説明し、12%は他人に危害を加えるために行われる卑劣な行動としてそれを定義している[42]。

2020年7月にモーニング・コンサルトが実施したアメリカの登録有権者を対象にした調査によると、「公人や企業が不快または不快と見なされることを行った、または言った後、その支持を撤回する(またはキャンセルする)慣行」とキャンセル・カルチャーを定義することが一般的だった。回答者の40%は、ソーシャルメディアを含め、公人や企業からの支持を撤回したことがあると述べている。これは、不快または不快と見なされることを行った、または述べたためであり、8%がこれに頻繁に関与したことがある。行動は年齢によって異なり、18-34歳の有権者の過半数(55%)がキャンセル・カルチャーに参加したと述べているが、65歳以上の有権者の約3分の1(32%)がソーシャルメディアでの行動に参加したと述べている[43]。実践に対する態度はまちまちで、回答者の44%がキャンセル・カルチャーを不支持、32%が支持、24%が分からないか意見はないと答えた。さらに、46%はキャンセルカルチャーが過剰だと考えており、10%だけが過剰ではないと考えていた[44]。

ハーバードアメリカ政治研究センターとザ・ハリス・ポールによる2021年3月の世論調査では、回答者の64%が「キャンセル・カルチャーの成長」を自由への脅威と見なし、他の36%はそうとは見なしていないことが分かった。回答者の36%がキャンセル・カルチャーは大きな問題であり、32%は中程度の問題であり、20%は小さな問題であり、13%は問題ではないと述べている。54%は、インターネット上で意見を表明した場合、キャンセルまたは解雇されることを懸念していると述べ、他の46%は、懸念していないと述べた[45]。

2021年11月のHill/HarrisXの調査によると、登録有権者の71%が、キャンセル・カルチャーが過剰だと強くまたはある程度感じており、共和党員(76%)、民主党員(70%)、無党派層(68%)がそのように答えた[46]。同じ世論調査では、登録有権者の69%が、キャンセル・カルチャーは、過去の行動や発言で人々を不当に罰すると感じていたのに対し、31%はそうではないと答えた。共和党員(79%)は、民主党員(65%)や無所属(64%)と比較して、不当だと答える割合が高かった[47]。

ニューヨーク在住のジャーナリストのシェリーめぐみは、アメリカのZ世代にとって「消費は投票」であるとし、「自らの購買力を駆使して企業に影響を与えることで、人権を守ろうとしている」「企業は売り上げ減や株価下落などの危機に直面し、彼らの要求に応えるしかない。こうした動きが繰り返され、アメリカの若者と企業は人権や社会正義のメッセージを共に出すことで、社会の潮流を作っている」と評している[48]。

メディアの反応

アメリカのテレビアニメシリーズ『サウスパーク』は、番組の第22シーズン(2018年)を宣伝する独自の「#CancelSouthPark」キャンペーンでキャンセルカルチャーを皮肉り、嘲笑した[49][50][51][52]。

キャンセル・カルチャーは、デイヴ・シャペルによる2019年のスタンダップコメディショー『デイヴ・シャペルのどこ吹く風』では主要なテーマで皮肉られており、キャンセル・カルチャーを行う者の過敏症への抗議が意図されていた[29][30]。

2022年トッド・フィールドが監督を務めた映画『TAR』は、アンチキャンセルカルチャーのメッセージが込められていると、複数の映画評論家によって批評された[53][54]。

日本

政治学者の前嶋和弘によると、日本では原義よりも広い範囲の事例にまで用いられるようになっているという[55]。朝日新聞は、上記の意味での「キャンセルカルチャー」は2021年来に日本でも「目につくようになった。」とし、「正当な異議申立」か、「行きすぎた排除」か双方の意見を聞いた記事を出している[56]。

事例

問題点

キャンセルカルチャーの問題点として以下が挙げられている[62][63]。

  1. 法治主義からの逸脱
    • キャンセルカルチャーには法の不遡及の原則がないため、法治主義から逸脱することがある。何年、何十年も前の言動を発掘してきて、それをいまこの瞬間の価値観や社会正義の基準で裁いている[62]。その企業や人物を排除すること自体を意図している[63]。
    • ジャニーズ性加害問題当事者の会は、ジャニーズ事務所(現SMILE-UP.)に対して「具体的な補償額についても法を越えた救済を図るよう求めます」と要望しており[64]、事務所側も消滅時効に関わらず法を超えた補償を行うと宣言した[65]。
  2. 対抗言論の困難さ
    • 告発された者に対抗言論の機会が十分に与えられず、一方的かつ不可逆的に排除の手続きが進められることがある[62]。過去の行為に対する謝罪に効果がなく、長きに渡って多数の出演がキャンセルされたり、謝罪がさらなる反発にさらされたりするケースもある[66][67][68]。
    • 例えば、前述の小山田圭吾・たぬかなは当該の行為を謝罪・弁明したものの批判の声が収まらず、解任・解雇された事例とされる[69][70][注釈 3]。ただし、小山田の場合は、法的処罰対象となる犯罪行為である[72][73]。小林賢太郎・石川界人・加藤純一の事例は違法行為をした訳ではないが、対抗言論の機会もなく即座に解任された[74][75][76][注釈 4]。ジャニー喜多川も、問題視されるようになった2023年時点ですでに死去しており、全く抗弁の余地はなかった。

言論人の見解

成蹊大学の伊藤昌亮は、現代は炎上すべてを御法度としていては成り立たない時代であり、運動の目的が対象への攻撃そのものとなっている場合は繰り返しキャンセル運動が起きるため、自社の考えを表明することが大事だと述べている[80]。

文筆家の御田寺圭は、キャンセルカルチャーについて、論拠も乏しいまま、被告発者を「差別主義者」や「歴史修正主義者」などとレッテルを貼って糾弾し、被告発者の社会的生命が終わるまでとことん仕事や名誉を奪う超法規的な集団リンチであると述べている。また、キャンセルカルチャーが「対象の社会的追放や名誉の取り消しを目的とした集団的抗議行動」と事実上なっているのが問題であり、キャンセルカルチャーが批判されているのは「マイノリティーを差別したい自由を守りたいからではない」と評している[62]。

作家の真鍋厚は、キャンセルカルチャーの参加者について、前述のオバマ氏の発言を引用した上で、「社会的弱者に手を差し伸べるといった、それ相応の関係性やコストが伴う行動主義は敬遠するくせに、ソーシャルメディア上で指先を動かすだけで「世の中を変えた」気になり、まるで正義の鉄槌を下した英雄のごとく振る舞う恥知らずな人々」と評している[63]。

作家の橘玲は、自著『世界はなぜ地獄になるのか』の中で、SNSは正義をローコストで行うことのできるエンタテインメントに変貌させたと述べた[81]。また、欧米日問わず、ネットユーザーが鬱憤を晴らすためや、単に糾弾したい欲求を満たすために使われ、正義執行を大義名分に暴走した正義を振りかざすことができる娯楽として行われているとしている[82]。

精神科医の内田舞は、差別的な発言をした人物を非難することは正しいかもしれないが、その人物を正義の名の下に大勢で叩いて排除しようとすることは正義とはいえないと述べ、キャンセルカルチャーに参加する人はSNSで徒党を組んで誰かを攻撃することで承認欲求を満たそうとしていると分析している[83]。

自身も被害を受けた経験を持つ三浦瑠麗は、キャンセルカルチャーについて、異端審問または文化大革命のときの自己批判の手法と同じで、圧力をかけて相手に差異化を放棄させることは、知性を放棄させることに等しいと評した[84]。

米日以外の国・地域

2024年時点で、キャンセルカルチャーに関する法整備はあまり進んでいないが、シンガポールでは法規制の検討が始まっている[85][86][87]。日本でも炎上の煽動行為を侮辱罪の加重類型に該当させることで抑制すべきという議論がある[88]。大衆によるキャンセルカルチャーの推進を懸念する評論家もいるが[89]、中華人民共和国では官公庁が率先して行う官制キャンセルというものもある[90]。

韓国

2021年3月には、韓国放送公社(KBSテレビ)の時代劇ドラマ『王女ピョンガン 月が浮かぶ川』に出演していた男優ジスが、学生時代に複数の同級生などに校内暴力加害(いじめ)をしていたことが発覚し、降板した。ジスは、複数人の被害者によるオンラインでの告発を受けて、校内暴力をしていたことについて、過去に犯した非行を認め、弁明余地ないと謝罪した[91]。この過程では、KBSの視聴者権益センターに、約5700人もの視聴者から降板要求があった。

ジスの事例以外でも、2020年初頭ごろの韓国では、スポーツ選手・芸能人による過去のいじめや暴力告発が取りざたされる事例が相次いでいる。

韓国での校内暴力・いじめ告発の発端となったのは、日本でも大きく報じられた双子の女子バレーボール選手イ・チェヨンとイ・ダヨン(24)姉妹への告発である。告発同日のにインスタグラムで謝罪文を公開したが、同月13日と14日に別の被害者らも彼女らの加害への告発文を投稿した。その後、所属プロチームから無期限の出場停止処分、韓国バレーボール協会から国家代表資格の無期限剥奪を通告された[92]。

シンガポール

2023年5月、シンガポールではキャンセルカルチャー対策の法律を検討しているとCNNが報じた。シンガポールのシャンガム法相(当時)は、「自分たちの見解を理由にネット上で攻撃されることを恐れて公の場で実質的な発言ができなくなった人もいる。」「ヘイトスピーチと言論の自由との間の正しい境界に目を向ける必要がある。」などと述べ、キャンセルカルチャーは被害者に重大な影響を及ぼす恐れがあると指摘している[87]。

参考文献

関連項目

脚注

注釈

  1. cancelingはアメリカ英語であり、イギリス英語ではcancellingと綴る[8]。
  2. これについて、本人は「心ない発言や行為を、当時、反省することなく語っていたことは事実」としつつも、「事実と異なる内容も多く記載されている」としている[57]。
  3. 小山田氏は、当時は非常に未熟な人間であったことと開会式へ不快な印象を与えてしまうことへの謝罪をした[69]。たぬかな氏は、高身長が好きなだけでありヘイトスピーチの意図はない旨の弁明をした[70](ゲームの攻略に必要不可欠なキャラのことを「人権キャラ」と呼ぶネットスラングがある[71])。
  4. 小林氏は、浅はかに人の気を引こうとしていた頃のネタで、その後考えを改めて人を傷つけない笑いを目指すようになっていった旨の弁明をした[77]。石川氏は、自身のラジオ内で一部配慮に欠けた発言があった旨の謝罪をした[78]。加藤氏は、あくまで自分の企画に理解を示している視聴者の中から希望者を募るもので、世間一般に向けたものではない旨の弁明をした[79]。

出典

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