ジョン・ウィリアムソン (バスケットボール)

ジョン・ウィリアムソン(英語: John Williamson, 1951年11月10日 - 1996年11月30日)は1970年代のアメリカ合衆国プロリーグで活躍したアフリカ系アメリカ人のバスケットボール選手。コネチカット州ニューヘイブン出身、ニューメキシコ州立大学卒業。ポジションはガード、身長188cm、体重84kg。2度のABA優勝に貢献した[1]。1990年12月7日、ブルックリン・ネッツ(当時はニューヨーク・ネッツ)ではウィリアムソンの背番号『23』が永久欠番となった[2]。

ジョン・ウィリアムソン
John Williamson
故人
ポジション ガード
基本情報
愛称 Super John
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 1951年11月10日
没年月日 (1996-11-30) 1996年11月30日(45歳没)
出身地 コネチカット州ニューヘイブン
身長(現役時) 188cm (6 ft 2 in)
体重(現役時) 84kg (185 lb)
永久欠番 ネッツ  23 
選手経歴
1973-1977
1977-1978
1978-1979
1979-1981
ニューヨーク・ネッツ(ABA)
インディアナ・ペイサーズ(以下、NBA)
ニュージャージー・ネッツ
ワシントン・ブレッツ
Stats  Basketball-Reference.com
Stats  NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

大学時代は"スーパージョン"の異名で恐れられるスコアラーであったジョン・リー・ウィリアムソンは、1973-74シーズンにABAのニューヨーク・ネッツに入団した[1]。同じ年にジュリアス・アービングも入団したネッツは、アービングにラリー・ケノン、ブライアン・テイラーとリーグ屈指の陣容を誇ったが、シーズン序盤に9連敗を喫するなど、4勝10敗となった状況でケビン・ローアリーヘッドコーチによって先発に昇格した[2]。ハードなディフェンスだけでなく、オフェンスでもアービングのサポートを行い、チーム状況は劇的に変化し、快調なシーズンを過ごしたネッツはリーグトップとなる55勝29敗を記録。プレーオフも勝ち抜き、見事に優勝を果たした[1]。一時22点リードを許したプレーオフ決勝の第6戦では第4Qに16得点するなど、28得点をあげて逆転勝利に貢献した[2]。

ウィリアムソンは平均14.5得点をあげ、オールルーキー1stチームに選ばれている。ネッツはその後もABA屈指の強豪チームとして君臨し続け、そしてウィリアムソンはやはりABA最大のスーパースターであったアービングの相棒として活躍し、1975-76シーズンには2度目の優勝を果たした[1]。しかしこのシーズンを最後にABAはライバルリーグのNBAに吸収合併されるという形で消滅。この一大事変により、ウィリアムソンの選手キャリアは大きく狂わされた。優良なフランチャイズだったネッツはNBAに新たに加盟する形で存続したが、この時NBAと同じニューヨークに本拠地を置くニューヨーク・ニックスに莫大な加盟料を支払わなければならず、ネッツは一気に財政難に陥り、ジュリアス・アービングの放出を強いられた。そしてNBAでの初めてのシーズンとなる1976-77シーズン途中にウィリアムソンは、インディアナ・ペイサーズに放出された[1]。

移籍先のペイサーズでは平均20.8得点をあげ、ウィリアムソンの得点力がNBAでも通用することを証明。翌1977-78シーズンには古巣ネッツがウィリアムソンを再び獲得、移籍後は平均29.5得点をあげている。1978年4月2日のアトランタ・ホークス戦では40得点、4月4日のインディアナ・ペイサーズ戦では50得点をあげた[1]。

このように秀でた得点力を示したにもかかわらず、NBA加入以後のウィリアムソンは、一所に腰を落ち着けてのプレイができず、1979-80シーズン中には今度はワシントン・ブレッツへトレードされた。この移籍を境にウィリアムソンのパフォーマンスが下降し、1980-81シーズンに29歳で引退を強いられた。

ABA/NBAキャリアでの成績は8シーズン516試合の出場で、通算9,017得点1,274リバウンド1,441アシスト、平均17.5得点2.5リバウンド2.8アシスト。NBAのみに絞れば平均20.1得点だった。

ウィリアムソンは1978年のサンディエゴ・クリッパーズ戦でフリースロー試投24本というネッツのチーム記録を作った。2005年にビンス・カーター、2008年にデビン・ハリスがこの記録に並んでいる[3]。他に1978年のバッファロー・ブレーブス戦で40本のフィールドゴール試投のチーム記録、1979年のフィラデルフィア・セブンティシクサーズ戦で34本のフィールドゴール試投のプレーオフでのチーム記録を持っている。プレーオフでのチーム記録となる38得点をあげていたが、1992年のクリーブランド・キャバリアーズ戦でドラジェン・ペトロヴィッチが40得点をあげて、この記録を更新した[1]。

1996年11月30日に腎不全のため45歳で死去した[4]。

人物

彼がネッツに入団する前、1970年から1973年までネッツのヘッドコーチを務めたルー・カーネセカは、彼は背が低いが、力強さ、粘り強さを持った選手で、得点力があったと語った[1]。

ローアリーヘッドコーチの下で、アシスタントコーチを務めたロッド・ソーンによると、彼は優勝するために足りなかったピースであったと語った[1]。

脚注

  1. “Harris has field day at stripe as Nets hand Pistons 1st loss in Iverson's debut”. ESPN (2008年11月8日). 2015年7月4日閲覧。
  2. “John Williamson”. remembertheaba.com. 2015年7月4日閲覧。
  3. “Harris has field day at stripe as Nets hand Pistons 1st loss in Iverson's debut”. ESPN (2008年11月8日). 2015年7月4日閲覧。
  4. Vincent M. Mallozzi (1996年12月2日). “John Williamson, 44, Nets Star in the 1970's”. ニューヨーク・タイムズ. 2015年7月4日閲覧。

外部リンク

This article is issued from Wikipedia. The text is licensed under Creative Commons - Attribution - Sharealike. Additional terms may apply for the media files.