今井嘉幸
経歴
愛媛県周桑郡小松町南川(現在の西条市)生まれ[1]。今井角次の二男[4]。1897年に愛媛県立松山中学校[5]を、1900年に第一高等学校[6]を卒業し、1904年7月に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[7]。さらに同大学院で国際法を専攻[8]。修了後、東京地方裁判所判事[9][10]に任命された。1908年、清の招聘[11]で判事在職のまま天津の北洋法政学堂で司法制度を教授した[1]。
1914年、帰国して判事を退官し[12]、大阪で弁護士の業務に就く[13]。同年12月24日に法学博士の学位を授与された[14]。
1916年、中華民国での護国戦争に際し、雲南軍政府の招きで軍務院の顧問に就任した[1]。
1917年の第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選を果たした[15]。普選運動に加わり[16]、「普選博士」と呼ばれたという[17]。1918年には吉野作造らと黎明会の結成にも関わった[18]。その後は社会大衆党の顧問を務めた[19]。
1942年の第21回衆議院議員総選挙で再び議員に返り咲いた[20]。
著書
脚注
出典
- 『大日本博士録 第1巻』発展社、1921年、pp.法博162-163
- 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 衆議院議員名鑑』1962年、pp.60-61
- 『日本紳士録 第24版』神戸7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年1月10日閲覧。
- 『人事興信録 第12版 上』イ278頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月1日閲覧。
- 『愛媛県立松山中学校一覧 明治43年9月』愛媛県立松山中学校、1910年9月、p.78
- 『第一高等学校一覧 自明治33年至明治34年』第一高等学校、1901年、p.198
- 『東京帝国大学一覧 従明治37年至明治38年』東京帝国大学、1907年12月、p.(95)
- 『東京帝国大学一覧 従明治37年至明治38年』東京帝国大学、1907年12月、p.(9)
- 『官報』第7376号、明治41年1月31日、p.531
- 『職員録 明治39年(甲)』印刷局、〔1906年〕、p.362
- 『官報』第7393号、明治41年2月21日、p.461
- 『官報』第536号、大正3年5月14日、pp.342-343
- 『日本辯護士名簿 大正15年7月現在 日本弁護士協会録事法曹公論号外』日本辯護士協會、1926年、p.261
- 『官報』第738号、大正4年1月20日、pp.362-363
- 『自第7回至第13回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1918年12月、p.82,
- 弘田勝太郎「關西に於ける普選運動」『普選運動史及普選の心得』而立社、1925年、85-86頁。
- 朝日新聞社神戸支局 1967
- 住谷悦治 1967
- 『社会大衆党報告書. 昭和7・8年度』社会大衆党書記局、1933年12月、p.66
- 『第21回衆議院議員総選挙一覧』衆議院事務局、1943年5月、p.363
- 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、154頁。NDLJP:1276156。
参考文献
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