医得業生
概要
天平2年(730年)3月の太政官の奏上により、吉田宜らに弟子を取らせて業を習わしめ、時服・食料を支給し、医得業生3人を設置したとあるのが、史料における初出である。その目的は、諸博士が高齢で老衰したため、後継者を育てることであった[1]。『令集解』には加えて、大学寮の学生に準じよ、とも記されている。
上述のように、定員は3名であったが、弘仁5年(814年)、内薬司に医得業生4人をおいて医業を教伝せしめ、とあり[2]、4名に増員されている。内薬司は、寛平8年(896年)に典薬寮に併合されている。
脚注
- 『続日本紀』天平2年3月27日条
- 『令集解』
参考文献
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