千種忠顕
千種 忠顕(ちくさ ただあき[注釈 1])は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・六条有忠の次男。官位は従三位・参議、贈従二位。千種家の祖。
凡例 千種忠顕 | |
|---|---|
![]() 千種忠顕(『前賢故実』より) | |
| 時代 | 鎌倉時代末期 - 南北朝時代 |
| 生誕 | 不明 |
| 死没 | 延元元年/建武3年6月7日(1336年7月15日) |
| 改名 | 六条忠顕→千種忠顕 |
| 官位 | 従三位・参議、贈従二位 |
| 主君 | 後醍醐天皇 |
| 氏族 | 六条家→千種家 |
| 父母 | 父:六条有忠 |
| 兄弟 | 六条有光、忠顕、六条有実 |
| 子 | 具顕、長忠、忠方、顕経、治庸 |
生涯
後醍醐天皇の近臣となり、皇太子邦良親王の早期即位を画策する父・有忠と敵対した。
元弘2年/正慶元年(1332年)の元弘の乱の後、天皇が隠岐島流罪に処されると、これに随従している。
翌年、天皇と共に隠岐を脱出して伯耆国の名和長年を頼り、船上山に挙兵した。頭中将に任じられ、山陰の軍勢を率いて足利高氏や赤松則村らと共に六波羅探題攻めに参戦している他、奥州白河の結城宗広、親朝親子を始め各地の豪族に綸旨を飛ばすなど、後醍醐天皇による倒幕運動に寄与した。
建武の新政では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、権勢を振るった。従三位参議や雑訴決断所寄人となり、丹波国[2]、佐渡国など3ヶ国の国司職と北条氏の旧領10ヶ所を拝領したものの、万里小路宣房らと共に出家した。宣房はこのとき高齢であるが、佐藤進一の推測によれば、若年の忠顕の出家は新政への批判が集まる中で詰め腹を切らされる形となったものではないかという[3]。
建武2年(1335年)11月、足利尊氏が新政から離反すると、建武3年(1336年)1月に新田義貞や北畠顕家らと共にこれを追い、足利勢を九州へ駆逐した。

「千種忠顕卿戦死の地」の碑(京都市左京区)[4]
同年6月7日、再び京都へ迫った尊氏の軍と対戦し、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂(現在の京都府京都市左京区修学院音羽谷)で足利直義と戦って戦死した[4][5][6]。
明治維新後、新田義貞、北畠顕家、楠木正成らが再評価されたことに伴い、大正8年(1919年)11月15日に忠顕は従二位を追贈された。
人物
脚注
出典
- 村田 1997.
- 亀岡市史編纂委員会 編『亀岡市史 中巻』亀岡市役所、1965年4月1日、56頁、NDLJP:2981316(要登録)。
- 佐藤(1974)pp.147-148
- 京都市いしぶみデータベース:千種忠顕卿戦死の地
- 京都市いしぶみデータベース:水飲対陣跡
- 「千種忠顕」[朝日日本歴史人物事典』
- 『系図纂要』による。
- 『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』による。
参考文献
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