深作清次郎

深作 清次郎(ふかさく せいじろう、1911年〈明治44年〉5月18日 - 1987年〈昭和62年〉9月22日)は、日本右翼政治活動家印刷業者、農家。26年間にわたり、合計23回の国政選挙および首長選挙に出馬するも、全て落選した。

ふかさく せいじろう

深作 清次郎
1986年
生誕 1911年5月18日[1]
日本の旗 茨城県那珂郡湊町大字和田
(現:茨城県ひたちなか市和田町)[2]
死没 (1987-09-22) 1987年9月22日(76歳没)
出身校 京橋区京橋商業専修学校
職業 政治活動家印刷業者
肩書き 反ソ決死隊隊長等
署名

略歴

水戸藩士の末裔である生家は貧しく[3][4][注 1]、湊尋常小学校[注 2]卒業直後の1924年に上京[6]。書店や印刷所の小僧として住み込みで働きつつ[7][8]、京橋区京橋商業専修学校[注 3]に通った。1930年に同校を卒業[11]、それと同時に独立し、浅草で印刷所を開業した[6]

一方で、この時期に次々に発覚した東京市疑獄京成電車疑獄事件など)から社会に対する不満を抱き、また親族による事件の影響もあって(後述)、1932年黒龍会内田良平門下に加わる[7]。同年、黒龍会の関係団体である大日本生産党に入党し[12]、同党関東本部の理事を務めたが[6][注 4]、党内に蔓延するテロリズムへの反発や生活苦により民族主義運動を離れた[15][注 5][注 6]

その後、日本硬化冶金などで勤務していたが[18]1943年に兵役を志願する[注 7]陸軍船舶兵として入営したが、戦場に赴く事はなかった[19][注 8]1945年3月、再び志願して陸軍に入隊し、歩兵二等兵として大阪の部隊へ配属された[3]。復員後の1945年8月から半年間、鹿島町の砂丘地帯で開拓農家として過ごす[20]1947年5月頃、川崎市郊外に開拓農家として移り[21][22]、旧高射砲陣地の兵舎跡を改築して住んだ[3]

1950年には反共運動を本格化させ(後述)、清水亘が率いる大日本独立青年党に加入、後に遊説部長となる[23][21]1960年安保闘争の激化に加え、浅沼稲次郎暗殺事件に衝撃を受け[24]、清水を総裁とする「議会主義政治擁護国民同盟」(議擁同)に加わり、後に26年半に及ぶ選挙闘争を始めた。並行して他の右翼候補の応援も行い[25]、右翼勢力の連帯を図って「日本民族倶楽部」結成に携わった(後述)。一方で、独自に雑誌の主筆や同人作家としての執筆活動[18]、後述の「青年錬成道場」の主宰、日本教職員組合などへの抗議活動も行っていた。

1987年、最後に出馬した選挙から5カ月後に死去[26][注 9]76歳没

思想

政治的主張

論説

  • 「相手を憎む心より愛する心になって、革命とか暗殺とかないような明るい日本にしたい」「民衆に対する奉仕と愛情、この情熱を一人でも多くの人にわかってもらい、愛情ある政治に少しでも近づけるために選挙に出る」と訴えていた[24][40]。故に暴力やテロリズムには否定的であるものの、テロ事件を起こした山口二矢野村秋介には一定の共感を示し、このままでは革命が起こると危惧していた[41]
  • いわゆる泡沫候補を意図的に無視、排除する報道機関の姿勢を繰り返し非難した[42][43][44]。同時に、政見放送で商品の饅頭を宣伝するためだけに立候補した熱海の土産屋「天の川」のような売名候補、および窪田志一のような奇行候補も、他の泡沫候補へ悪影響を及ぼすと批判している[44]
  • 愚連隊を社会の脅威と語る一方で[28]、彼らを悪しき教育の犠牲者として[30]、非行少年や前科者の更生および就業の確保の重要性を訴えた[45][29]
  • 1980年以降、繰り返される武力侵攻、過度の平等主義に基づく社会体制、広大な耕地を持ちながら大量の食糧輸入を続ける情勢から、ソビエトの内部崩壊は迫っていると度々予言していた[43][8][39][注 12]

批評

1965年

政党

  • 自由民主党:「汚職で民心を失った自民党は、今なお、私利私欲の明け暮れで、国民大衆を守る気概は更にない」[34]
  • 日本共産党:「中ソの手先から脱却できぬ哀れむべき宿命の党」[33]「日ソ貿易を介して莫大な資金をソ連より支給されて居る売国政党」[1] 「資金も指令もソ連に仰ぎ執拗に運動を繰り返した」[32]「日本に生れ日本に仇をなる奇怪なる政党」ママ[46][注 13]
  • 日本社会党:「米国に強い社党は中ソには召使の如しだ」[48]「暴力を常に行使して議会政治を否定している」[28]総評と共産党に牛耳られ、自民同様に堕落政治家の群れ」[33]「猫をかぶった共産党」[46][49][36][注 14]
  • 公明党創価学会):「貧しい人々の浄財で大名の暮しをして居る」[30]「他宗の存在は許さぬと言う主張は共産主義と同じ」[30]「憲法よりも創価学会を尊しとする、法治国への危険な挑戦」[33]「地上の支配者の如き高慢・独善」[33]「先に『十年間日共と和解する』と発表したが宗教否定の共産党となぜ妥協したか? 言う迄もなく池田大作モスクワで脅かされたからだ」[36]

組織

  • 赤軍派:「彼らは共産主義者を自称して居る。たぶんソ連が資金を出して居るのだろう。そして社共の代偽士共が陰で煽動しているふしも見える」ママ[46]
  • 日本教職員組合:「親孝行無用と貴方がたは言う。しかし老人をいたわらぬ国は犯罪を産みやがて亡びるでせう」[30]「敗戦後赤い日教組により四百万の非行少年が造られ、大学に入っては恩師を撲り校舎を焼く暴徒と変り共産革命を叫ぶ様になりました」[50]「彼ら(註:赤軍派暴徒)をかくあらしめた日教組及赤色文化人共を処罰すべし!」[46]
  • 青年法律家協会:「法曹界に猛威をふるつている赤色集団」[51]「『憲法改悪阻止』『安保廃棄』『教育の軍国主義化反対』等々、他の革命勢力と闘争目標を一つにしている」[51]「彼ら(註:赤軍派)の殺人放火行為を殆ど無罪とする青法協裁判官の唖然たる腐敗ぶり!」[32]
  • 三大紙:「常に現代政治家を陣笠よ猿よと罵る新聞が、何故か選挙期間中はガラリと態度を変えて、自民、社会の公認候補に非ずんば人に非ずと言うが如き二ユースを流す。そして選挙が終れば又もや元の論調にかえり『又猿共が顔を揃えて登場した。何をやつても同じ低級政治家を選ぶ日本人は馬鹿共だ』と罵りはじめる。かくの如き無定見は国を誤るものと言はざるを得ない」[52]「公正中立を口にし乍ら自民に媚び、財界にへつらい、社共におもねり、暴力を支持し、日狂組なるものを扇動、小学生が幾百人と自殺したり、教師を撲り、親を殺す恐ろしい時代を作り上げた」ママ[53]「いずれもソ連の脅しに屈服してしまった」[38]「国民を裏切り良心を偽るこの連中をシベリア刑務所大学に大学留学させたいものだ」[37]

国家

個人

  • 向坂逸郎:「共産主義者として、ひたすら其の教義を唯一の指導原理と考え三池労働者を教え込み、十年に近い歳月を重ねる内に内乱の如き大争議を起す原動力となつたのである」「日本に仇をなすソ連の手先となつて法に背き世を乱しても敢て少しも悪いと感じない異状心理」ママ「向坂氏は一度も労働の経験のないブルヂヨア出身の老学者にすぎない、真に労働者の悲しみが判るものではない。唯々資本家を憎む中から日本産業の復興が可能な筈はないではないか!」[54]
  • 浅沼稲次郎:「此の事件の真の原因が犯人を煽動した大人に在るのではなく御遺族には気の毒だが、殺された浅沼氏に在ると考える」「遂に強大な左派社会党暴力革命主義に同調して容共に踏み切り、永年の穏健な社会民主々義を放棄して社会党委員長の席に就いた事が今日の災を招いた原因であると見る」[45]
  • 石橋政嗣:「国会外相に文句を付け、『津軽海峡ソ連艦隊様がお通りになる、これを陸上より写真撮影して居るがそれはスパイ行為だから止めろ』と」[1][注 15]「日本の代議士たる者がソ連の利益代表を務める狂気の世の中」[1]非武装中立とは此の工業国日本を手つかづでソ連に進呈せんとする下心ではないのか!」ママ[49]
  • 宮本顕治:「現在の党首宮本は殺人犯だ」[46]「問う、君は日本人か? それともソ連人か。立派な日本人の御両親に育てられ、日本人の米を食い、日本人の着物を着、日本人の家に入って成長し、何が不足でソ連の手先になったのだ」[53]成田で十年間、警官殺しや空港妨害をなし、ビルに爆弾を仕かけ良民多数を殺りくするなど、あれも君と主義を同じうする赤軍派だ」ママ[53]
  • 中曽根康弘内閣総理大臣に就任した当初は、日米同盟の強化を図る姿勢を評価して「中曽根頑張れ!」と応援していた[49]。だが、1985年を最後に(在任中の)靖国神社への参拝を取り止めた事や「太平洋戦争は侵略だった」などの発言に失望し、「中共に脅された中曽根君も腰抜」[37]「中曽根の馬鹿は即刻退陣して貰おう」[39]と批判に転じた。

私生活

1963年

家族

  • 1958年頃に亡くした母親について「子供のために一生を捧げた人だった」と語った。20歳で脚気にかかった際に、母親のもとで療養した事を幸福な思い出として回想している[57]
  • 1939年頃に結婚した同年齢の妻は従姉妹であり、当時は珍しかった恋愛結婚だった[40][33]。夫婦の間には3男2女が生まれた[22][58][注 16]1979年の時点で、11人の孫に恵まれていた[35]
  • 娘の一人の結婚相手は、左翼系の出版社に勤めていたものの「人間には右手と左手があるように、善悪美醜は一体であり、調和にこそ人間の生きる道がある」「左翼も左手のようなもの」と考え、受け入れた[29]

嗜好・信条

  • 趣味は読書、登山、水泳(水府流[3]、短歌の吟詠[59][60][61]。一方で、飲酒も喫煙も嗜まなかった[12][62][15]。子供の頃から佐藤紅緑の作品を好み[12][15]、また伊藤桂一の著書「静かなノモンハン」を讃えていた[49]。また、藤山一郎の「青い背広で」を愛唱した[63][33]
  • 尊敬する人物は、義人政治家の田中正造[4][33]。また、吉田松陰藤田小四郎を「不浄の財など一切身に付けず、尽忠報国の誠の道を歩んで死んだ」と評している[46]
  • 座右の銘は「知らざるは知らざるとせよ、これ知るなり」ママ[64]。自宅には頭山満による書「忠孝一本」を額縁に入れて飾っていた[58]。選挙公報では「自ら守らざる者は亡ぶ」と度々謳っていた[53][34][43]
  • 「人間を支配する神々は目にあまる悪の横行を許さない」[1]「悪盛んにして天に勝ち、天定まって悪亡ぶ」[55][36][37]「天の神、地の仏が日本を守っている」[65]などの神国思想も展開していた。「ソ連原子炉の爆発は天罰である」とも述べている[37][38]
  • 「栄光の明治の精神に帰れ!」[8]「日本人は八十一年前の日露戦争当時の勇気を取り戻さねばならぬ」[39]と、明治時代への憧憬を抱き続けた。

その他

  • 選挙活動を始めた頃は農業を営み[24]農協生産組合長を務めていた[66]。遅くとも1963年には印刷所の経営者に転職し[67]、最晩年まで続けていた[68]
  • 郷里の茨城県の地方紙を含む7つの新聞に、1時間を掛けて目を通すのが朝の日課だった[69]。自宅に滞在する時間は少なかったが、合間を縫って掃除や洗濯などの家事を手伝った[12][40]
  • 川崎市の自宅にて、1983年頃まで「青年錬成道場」(または「華山塾道場」)を主宰していた[12][70][36]。孤児や非行少年、浮浪者、刑務所からの出所者などに寝床や食事を与えて更生させ、自らの思想は強要しなかった[71][28][6]。また、右翼の集会所や選挙事務所、子供会の会場としても用いられていた[72][58]。子供会の時が一番楽しそうだと妻は語っていた[40]
  • 川崎市の学校で、教師が愚連隊に袋叩きにされ、他の教員が見て見ぬふりをする様子を目撃し、身を挺して被害者を救出した事がある[3]
  • 1960年代当時、印象を良くするために、普段はあまり掛けない眼鏡を掛けるよう妻から勧められていた[19]。また、1968年頃から口髭をたくわえるようになった[73]

人脈

逸話

1962年

選挙活動前

  • 1920年水戸市歩兵第2連隊第3大隊全員を含む、多数の日本人虐殺された尼港事件が発生した。この事件からロシアに激しい憤りを覚え、民族主義に走る原点となった[15]
  • 戦時中は大東亜戦争を無謀と主張し、大日本赤誠会の幹部と激論を交えた事もあった[81]。また、東條内閣に全ての東京都民を疎開させるよう陳情した[71]。軍隊に志願したのは「負ける戦いでも祖国のために立たねば」という心境からだった[19]
  • 1950年に勃発した朝鮮戦争から共産陣営の脅威を感じ、同志2人と共に「日本国民同盟」を結成した[82]渋谷駅で毎週土日、4時間にわたる反共演説を行う活動を3年間続けたが[12][62]、休戦後の1954年に自然消滅し、前後して「郷土を守る会」を一人で始めた[82]
  • 1954年8月9日反ソ連デー)、約40人の右翼がソビエト連邦代表部で抗議活動を行い、更には鉄門を破って侵入、警察官を負傷させる事件が発生し、荒原朴水[注 19]福田進らが起訴された[83]。深作はこの抗議活動に参加しており、警察による取り調べにおいて荒原の関与を認め、また法廷では検察側の証人として福田による暴行を証言した。これに対し、荒原は「警視庁の一部のものの、陰謀にのって、謀略スパイとして我々の中に入りこませていた右翼の裏切り者」と深作を誹謗し、全右翼から除名されたと著している[84]。実際には、深作はその後も他右翼勢力と連帯している(前述)。
  • 1958年1959年および1960年、国会議事堂にて日本社会党所属の国会議員と面会し、反米姿勢や中ソへの追従などを批判した。その際、浅沼稲次郎は返答に窮し、久保田鶴松は丁重に対応し、加藤シヅエは感心して聞き入っていたと、また社会党が集団暴力を扇動すれば、右翼はテロで立ち向かう事になると加藤勘十に警告したと記している[45]

演説

  • 1983年まで催された立会演説会での人気は高く、激しく腕を振りながら早口でまくしたてる演説は多くの聴衆を惹きつけ、「がんばれ」と声援が飛んだ[21][57][注 20]。他の候補者からも、演説会場の控室で「あなたの熱弁はすごい」と称賛される事があった[69]。一方で、知事選挙であっても都県の情勢にはあまり触れず、国内・国際問題ばかりに言及したため、対立する左翼勢力を含めた聴衆からの野次が絶えなかった。その度に深作は「黙れ!」「人の話を聞かぬ奴は表へ出ろ!」と一喝した[21][85]
  • 選挙活動は演説(と公報・ポスター)の一本槍だった[60][86]。候補者に支給される、15回分の鉄道・バスが乗り放題となる無料パス(特殊乗車券)を用いて演説会場を回り、午前7時に起床して午前1時に帰宅する日々を送った[21][69]
  • 立会演説会や政見放送の冒頭で軍歌を独唱し、日露戦争について熱く語るのが恒例だった[44]1986年の参院選の政見放送では「独立守備隊の歌」を唄っている[65]

選挙公報

  • 1972年の衆議院選挙公報において、清水亘の声明として「万世一系唯一の皇統をつぐ熊沢宗家」「国家を代表する象徴天皇裕仁(□□足利尊氏の子孫――南北両朝の何れの血もひいていない)」[注 21]南朝を奉戴する我等南朝会会員同志一同」などの文言を載せた[51][注 22]。だが、清水が1974年1月に死去した後は、出馬した全ての選挙の公報に「天皇陛下萬歳!」と記すようになった。
  • 選挙管理委員会検閲により、1972年の衆議院選挙公報の1箇所、1979年の東京都知事選挙公報の1箇所、同年の衆議院選挙公報の4箇所が空白となって(削除されて)いる。
  • 1977年の参議院選挙公報において、全文にわたり「拝啓、ソ連邦書記長 ブレヂネフ閣下」と題した、ソビエトに対する拡大主義への抗議文を掲げた[55]

証言

  • 自らを「生粋の水戸っぽ」「よからさま(茨城弁で「お人好し」)」と呼び[3][70]、妻からは「大きな愛で社会を救おうとの理想を持っている」「純粋そのものといった理想家」「鉄より固い水戸侍の精神」と[19][81][35]、実兄からは「弟は夫婦揃ってお人好し」と形容された[6]。深作との付き合いが長い印刷会社社長は「一つの信念を一貫して持ち続けている」「万年青年」「身辺清潔で、正義感に溢れている」と印象を明かし、支援者が後を絶たないと証言している[35]
  • 報道機関を批判するものの、取材に対しては「新聞記者は俺の恋人だ。さあ、何でも聞いてくれ」「若い記者諸君は別だ。無名の俺の話をよく聞いてくれる」と快く応じていた[21]。複数の新聞記者が、取材を始めた時は穏やかで、話は上手く面白いものの、話題が政治に及ぶと一転して「バカヤローだ」「愚民だ」と激しい語気でしゃべり続ける様子を描写している[12][81]
  • 1975年東京知事選で共に立候補した秋山祐徳太子は、同選挙後に銀座で美人の秘書を伴っていた深作と偶然会った。そこで蕎麦屋に誘われて入ったが、深作は蕎麦が出る前に軍歌『橘中佐』を突如唄い出し、周囲を驚かせた。秋山は「堂々たる気骨、その純粋さに心を打たれた」と著している[44]
  • 1979年東京知事選において、対立候補である太田薫が渋谷駅付近で街頭演説を行っている最中、日本青年社の車両に乗って太田に接近し、警察官に制止されるまでマイクを使った批判演説を続けた。これが右翼勢力による妨害行為の一例として、衆議院の地方行政委員会において、警備局参事官柴田善憲によって紹介された[87]
  • 1980年代前半、日教組の青年部長だった森越康雄は、深作の抗議に何度も応対した。ある日、深作が抗議文の巻紙を朗読した後、森越に「何か言う事はあるか」と問うて「体に気を付けて頑張って下さい」と返されたところ、涙を流して「お前は槙枝みたいになるなよ」と語りかけた[88][89][注 23]

上記以外

  • 勝てないとわかりつつも、自身の政見を多くの聴衆や新聞に発表するために選挙に出馬していた[21]。落選直後も「世に警鐘を鳴らしただけでも価値があった」と述べていた[90]
  • 新聞記者から「あなたは結論だけで、方法がない」と指摘された際には「革命は結論だけで途中がない。議会から啓蒙運動を進めていく」と答えた。同時に「私が灰になってから、魂を継いでくれる人の時代が来ますよ」と述べている[4]。同様に、選挙活動では一貫して「愛する祖国、日本の将来を『眠れる英知』に期待しようではないか」[41]「命がけで租国の歴史と人民を守る豪傑の出現を三百万靖国の神々に祈ろうではないか!」ママ[39]と、他力本願な発言を繰り返した。
  • 1960年の衆院選旧東京4区)では、22箇所で熱弁を振るったにもかかわらず完敗した[11]。そのため、次戦の1962年参院選において、郷里の茨城県選挙区で立候補したが、その際に多くの親類が運動員として馳せ参じ、陣中見舞いを送った。これにより、選挙違反の誤解を招く事をおそれ、以降は同県での立候補は控え[91]、居住地である神奈川県での出馬を繰り返した。だが、1967年の衆議院選挙神奈川2区から立候補した際、神奈川新聞[33]を除くいずれの新聞社(同県地方版)も深作を取材しなかったか、あるいは取材記事を載せなかった[注 24]。その後は、東京都の選挙にのみ出馬するようになった。
  • 戦前から、妻に支えられながら政治活動を行っていた[40][4]。1960年代に神奈川県で出馬した際は、妻が選挙事務所所長を務め、既に成人・独立していた息子や娘婿も手伝っていた[58]。1962年の茨城県での参院選では、実兄が事務所長を務めた[6]。東京都でのみ出馬するようになってからは、南俊夫などの事務所を転々と借りていた[1]1976年からは再び「青年錬成道場」を事務所とし、1986年以降は埼玉県新座市に事務所を構えて(選挙公報に掲載して)いた。
  • 選挙のポスターは、後援会の印刷業者から毎回無償で約千枚が贈られ、自ら掲示板に貼り歩いた[69][58][60]。一方で、度々引き上げられる供託金の工面には苦労した[60]1982年、国政選挙および知事選挙の供託金が100万円から200万円に倍増した後の、1983年6月の参院選以降は選挙公報で寄付を募るようになった。
  • コラムニスト山崎浩一は、アカデミー賞授賞式よりも印象深いテレビ演説として日本の政見放送を挙げ、その代表例として東京知事選における深作の演説を紹介している[93][94]

語録

1987年
  • 当選しそうな奴に投票しよう、そう言う考え方が死票と言うものだ。腐敗政治がまではばをきかす現代日本の悲劇はこゝから生れる。[95][注 25]
  • 自由主義とは不完全なものでは有つても自分の命は自分のものと言ふ最少限の人権が確実に保たれて居て此所には少くも共産圏よりは豊かで平和な人間の生活が存在するのである、(中略)日本の自由主義が自由のはんらんにより一部には腐敗と矛盾を作りつつ在ることも事実だが、それはお互の日本人の善意と努力により除々に改善すべく努力して行くべきである。ママ[54]
  • 人間は三十四億一人々々に独自の人格と思想が有るのです。だから真理は一人のマルクス一個の日蓮正宗などに有るのでは有りません。世に自由ほど尊いものはなく自由とは失なってはじめて判るものなのです。[50]
  • 雨あられ雪や氷とへだつれど落つれば同じ谷川の水、人間は結局、死んで火葬場のかまどの中で灰になるだけだ。しかるに金と権力を握ると増長し、未来永劫に生きるかの錯覚に陥る。[55]
  • ブレヂネフさんよ。(中略)良い加減にしてくれ。日本人をなめるなよ。俺達にはなを旅順に突撃した父祖の血が脈々と此の五体の中に流れて居るんだ。[53]
  • しかし宮本君よ、(中略)日本を愛するのはソ連人や中共人ではない、我々日本人だけだよ。(中略)人間の最後の良心、それは愛国心と言うものだ![53]
  • 人類の敵、共産主義なるものは、今や、白日下に其の全貌をさらしている。見よ、カンボジヤ大虐殺を、そして、ベトナム難民の悲惨を、ソ連は三年前、黒人帝国エチオピヤを亡ぼし皇帝を殺し、キューバ兵を利用してアジヤ、アフリカに限りなき戦乱を捲き起して居る。去年アフガニスタンも亡ぼされた。今度は日本の番だ。[34]
  • 日本を愛する同胞諸君よ、諸君は断じて、ソ連に対し、此の祖国日本を渡してはならぬ、今こそ戦いに起つべきであろう。断乎として、大和魂を以て抵抗せよ。(中略)人間、一度死んだら二度とは死なぬ。[34]
  • 戦後三十八年の平和は三百万、靖国の英魂の犠牲のたまものだ。[8]
  • 反戦! 反核! 絶対平和! などと叫んで居れば戦禍は頭の上を通り過ぎてくれるとでも思って居るのか。かかる発想は世界中でも日本だけである。[36]
  • 対ソ降伏論にうつつを抜かす愚か者、それが現代の日本人だ!(中略)建国以来三千年、日本人が此れ程までに堕落した時代はないだろう!(中略)飽く迄、その降伏論を強行せんとするならば、日共、社会党、朝日新聞社は東京をすててモスクワへ党本部と本社を挙げて移転するが良い。あとは我々愛国者がしっかり国を守るから心配せんでも良いのだ。[49]
  • アフガンゲリラ六年の戦斗! 見事なり、あれが本当の男の姿だ! 自由と平和を守る為にはそれ相当の代価を払うべきだ![37][38]

選挙歴

国政選挙

選挙選挙区政党得票得票率順位肩書
1960年11月20日第29回衆議院議員総選挙旧東京都第4区議会主義政治擁護国民同盟1540.05%10/10著述業
1962年7月1日第6回参議院議員通常選挙茨城県選挙区無所属5,6440.73%5/5著述業
1963年11月21日第30回衆議院議員総選挙旧神奈川県第3区議会主義政治擁護国民同盟2300.06%11/11著述業
1965年7月4日第7回参議院議員通常選挙神奈川県選挙区議会主義政治擁護国民同盟10,2980.64%6/7著述業
1967年1月29日第31回衆議院議員総選挙旧神奈川県第2区無所属8330.15%9/9著述業
1968年7月7日第8回参議院議員通常選挙東京都選挙区無所属1,4840.03%22/24著述業
1969年12月27日第32回衆議院議員総選挙旧東京都第1区世界連邦日本国民会議1060.00%13/13著述業
1971年6月27日第9回参議院議員通常選挙東京都選挙区無所属1,2470.03%16/16著述業
1972年12月10日第33回衆議院議員総選挙旧東京都第7区大日本独立青年党7300.08%9/9著述業
1974年7月7日第10回参議院議員通常選挙東京都選挙区無所属2,5060.04%15/20著述業
1976年12月5日第34回衆議院議員総選挙旧東京都第6区無所属4280.07%10/10著述業
1977年7月10日第11回参議院議員通常選挙東京都選挙区無所属4,1490.08%17/18著述業
1979年10月7日第35回衆議院議員総選挙旧東京都第6区反ソ決死隊3000.12%8/8著述業
1980年6月22日第12回参議院議員通常選挙東京都選挙区反ソ決死隊6,8230.12%11/11著述業
1983年6月26日第13回参議院議員通常選挙東京都選挙区日本国民政治連合1,2360.03%39/50著述業
1983年12月18日第37回衆議院議員総選挙旧東京都第6区反ソ決死隊4220.15%8/8著述業
1986年7月6日第14回参議院議員通常選挙東京都選挙区正義と人権を守り明日の日本を考える救国斬奸党1,6330.03%39/50著述業

首長選挙

選挙政党得票得票率順位肩書
1963年4月17日神奈川県知事選挙無所属9,3410.8%4/4著述業
1967年4月15日東京都知事選挙世界連邦日本国民会議
日本青年社 推薦)
2,1840.04%9/10著述業
1975年4月13日東京都知事選挙無所属
(日本青年社、同結社 推薦)
5410.01%13/16著述業
1979年4月8日東京都知事選挙無所属
(日本青年社、同結社 推薦)
1,3200.03%11/13著述業
1983年4月10日東京都知事選挙無所属
(日本青年社、同結社 推薦)
4,3190.11%8/12著述業
1987年4月12日東京都知事選挙無所属
(日本青年社 推薦)
7,7160.21%8/11著述業

著名な血族

脚注

注釈

  1. 浅次郎・安文の父で(後述)、清次郎の曽祖父にあたる深作為五郎は、常陸国緑ヶ丘村の旧家出身の茨城県士族で、天狗党の乱前後においては(最終的に粛清された)諸生党の一員であったものの、辛うじて幕末を生き延びた[5]
  2. 旧:湊第二尋常小学校、現:ひたちなか市立那珂湊第二小学校。
  3. 東京市京橋尋常小学校(現在の中央区立京橋築地小学校)に1909年から1935年まで併設された、京橋区営の2年制実業補習学校[9][10][11]
  4. 司法省刑事局の記録によれば、1935年12月の時点で浅草区在住、大日本生産党の関東本部青年部の理事を務め、更に同年6月には30名からなる「青年殉国隊」を結成していた(肩書は第一分隊長)[13]。後者は、党幹部の無気力や政治的進出傾向などに対する反発によるものだった[14]
  5. 深作自身も1935年4月、大日本国家社会党の機関紙に執筆した記事の「大衆が昭和維新のために決起しなければ、流血もやむを得ない」という記述が、暴力的革新の扇動(新聞紙法違反)として発禁処分を受けている[16]
  6. 同党脱退後も、政治活動は続けていた。1936年9月15日、陸軍省を訪問して建白書を提出した事が、憲兵司令部の内部資料に記録されている[17]
  7. 丙種合格だったものの、「この危機に甲も丙もあるか」と係の中佐に掛け合い、甲種の判を押させたと後年に明かしている[19]
  8. 1971年から最後に出馬した選挙までの選挙公報にて、船舶司令部兵団文字符を冠した「暁戦友会」(茨城県)会長を名乗り続けた。
  9. 4年後の都知事選の際に、既に故人である事が報道された[27]
  10. 少なくとも1979年までは「世界連邦協会」の相談役を名乗っていたが[34]、「世界人類共存萬歳!」などの語句が選挙公報に載ったのは1983年の衆院選が最後であり、また同選挙の公報では「元世界連邦日本国民会議議長」を名乗っている。
  11. 日本民族倶楽部で深作と協調した赤尾敏や南俊夫(後述)は、売上税導入に反対していた[39]
  12. 最初の予言から11年後、および深作の死没から4年後の1991年12月、その予言通りにソビエトは崩壊に至った。
  13. 1951年から1963年自主独立路線による両党の対立)まで、ソビエト連邦共産党が少なくとも85万ドル2020年現在で20~30億円相当)の秘密資金を日本共産党に提供していた記録――事実であれば政治資金規制法違反――が、1992年ロシア連邦政府公文書委員会によって公開された。これに対し日本共産党は、内通者野坂参三袴田里見による個人的な着服だったと主張した。なお、両党対立後もソビエトが赤旗のモスクワ特派員を厚遇していた、1978年までの記録も同時に公開されている[47]
  14. 「四十年の永い間、日本の下層階級のために奮斗してくれた社会運動の人々は労働者農民の恩人であり、吾々は社会党に多くの尊敬の念すら抱いて居る」[45]と、過去の事績には一定の評価を与えている。
  15. 1966年2月17日、石橋は衆議院予算委員会において、宗谷海峡を通過するソビエト艦船の写真撮影・偵察などの特別哨戒(石橋曰く「スパイ活動」)を、本来の業務ではないにもかかわらず海上保安庁巡視船が行っていると問題視する発言を行っている[56]
  16. 少なくとも長男および次男が出生した時点では、正式に婚姻していなかった[45][40][58]
  17. 後年には右翼団体との結託、他候補への選挙妨害が証言されている(後述)。
  18. 深作は発足当時は役員に名を連ねていなかったが、後年に代表世話人を名乗っていた[75]。なお、1989年の時点で、日本民族倶楽部は事実上活動を停止している[76]
  19. 1905年生、2004年没。右翼理論家、大日本国民党創設者。著書「日本国家主義団体名鑑」など[83]
  20. 腕を振る仕草は、本人は「意識したものではなく、自然に出る」と語っている[7]
  21. 註:検閲により削除された箇所は「□□」にて代用。
  22. 印字された文章に「党總裁清水亘が決意した」と手書きで追記・強調している。なお、以前の選挙公報では「万世の為に太平を開かん、とは終戦の際、天皇陛下の血涙の宣言である」[42]と綴るなど、昭和天皇を敬っていた。
  23. 森越は、深作との抗議文のやり取りと共に、当時の零細の右翼について「おやじさんが巻紙を読むのを奥さんがちっちゃいテープレコーダーに録音して、写真撮ってるんです」と回顧している。ただし、深作夫妻がそうだったかは明言していない[88][89]
  24. 1963年の東京都知事選の立候補者によるなりすまし(第三者の戸籍の剽窃)事件、および同年衆院選での背番号候補事件の発覚以降、本来の選挙制度の趣旨から逸脱した泡沫候補に対する批判が高まっていた。後年、1967年衆院選を前に、三大紙の各社が法務省および自治省と共謀し、泡沫候補を紙面から締め出すと取り決めた事が、岩瀬達哉の調査により露呈している[92]
  25. 註:ルビは原文にはなく、独自に追加。
  26. 当時20歳の清次郎は、この事件を契機に井上日召の右翼思想に関心を持ち、政治活動を始めた[12]

出典

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  2. 読売新聞茨城版1962年6月12日朝刊9版12面
  3. 毎日新聞茨城版1962年6月13日朝刊12面
  4. 産経新聞横浜版1965年6月27日朝刊13版16面
  5. 「母德顕彰錄」『日本婦人の鑑』婦人評論社、1935年、9頁。
  6. 読売新聞茨城版1962年6月24日朝刊11版12面
  7. 神奈川新聞1965年6月29日朝刊1面
  8. 昭和58年東京都知事選挙公報
  9. 学校の沿革”. 中央区立京橋築地小学校 (2020年4月7日). 2021年3月5日閲覧。
  10. 田所祐史『地域社会教育施設の歴史的研究―公民館への継承と断絶―』(博士(人間学)論文)明治大学、2014年、36頁。NAID 500000916889https://hdl.handle.net/10291/16709
  11. 朝日新聞茨城版1962年6月13日朝刊12面
  12. 朝日新聞京浜版1963年3月28日朝刊12版16面
  13. 司法省刑事局思想部 (1936). 國家主義乃至國家社會主義團體輯覽 昭和十年十二月調(思想硏究資料 特輯第二十六號) (Report). pp. 169–170, 234–235.
  14. 『戦前における右翼団体の状況』 上巻、公安調査庁、1964年、77頁。
  15. 読売新聞京浜読売版1963年3月28日朝刊14版12面
  16. 『出版警察報』80号、内務省警保局、1935年5月、33-34頁。
  17. 荻野富士夫 編『十五年戦争極秘資料集 補巻3 思想彙報2』不二出版、1997年、474頁。
  18. 毎日新聞横浜版1963年4月16日朝刊12面
  19. 朝日新聞京浜版1965年6月16日朝刊12版16面
  20. 読売新聞茨城版1962年6月16日朝刊11版12面
  21. 神奈川新聞1963年4月7日朝刊3版7面
  22. 神奈川新聞1963年11月20日朝刊3版7面
  23. 藤田五郎『公安大要覧』笠倉出版社、1983年、605,650頁。
  24. 毎日新聞都内版1960年11月4日朝刊10面
  25. 神奈川新聞1963年4月16日朝刊2版7面
  26. FukasakuKjの2022年7月6日のツイート2022年7月21日閲覧。
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  28. 神奈川新聞1963年4月12日朝刊1面
  29. 朝日新聞京浜版1965年6月27日朝刊12版16面
  30. 昭和38年神奈川県知事選挙公報
  31. 第31回衆議院議員(神奈川2区)選挙公報
  32. 第10回参議院議員(東京都)選挙公報
  33. 神奈川新聞1967年1月23日朝刊7面
  34. 第35回衆議院議員(東京6区)選挙公報
  35. 読売新聞都民版1979年9月21日朝刊21面
  36. 第37回衆議院議員(東京6区)選挙公報
  37. 第14回参議院議員(東京都)選挙公報
  38. 『公安情報』第395巻、社会運動研究会、1986年8月、91頁。
  39. 昭和62年東京都知事選挙公報
  40. 読売新聞京浜読売版1965年6月22日朝刊14版16面
  41. 神奈川新聞1965年6月22日朝刊1面
  42. 第8回参議院議員(東京都)選挙公報
  43. 第12回参議院議員(東京都)選挙公報
  44. 秋山祐徳太子『ブリキ男』晶文社、2007年、161-162頁。
  45. 深作清次郎「浅沼暗殺事件に思う―赤色革命に反抗する白色テロ―」『神奈川県印刷工業組合ニュース』神奈川県印刷工業組合、1960年12月15日、4-6面。
  46. 第34回衆議院議員(東京6区)選挙公報
  47. 名越健郎『冷戦期における与野党の違法外国資金導入問題 -米ソ機密文書に見る日米・日ソ関係-』(博士(安全保障)論文)拓殖大学、2020年、111-123頁。NAID 500001377087http://id.nii.ac.jp/1579/00000305/
  48. 第29回衆議院議員(東京4区)選挙公報
  49. 第13回参議院議員(東京都)選挙公報
  50. 第32回衆議院議員(東京1区)選挙公報
  51. 第33回衆議院議員(東京7区)選挙公報
  52. 第30回衆議院議員(神奈川3区)選挙公報
  53. 昭和54年東京都知事選挙公報
  54. 深作清次郎「三池赤軍の謀将? 向坂敎授の分析」『神奈川県印刷工業組合ニュース』神奈川県印刷工業組合、1960年11月15日、8-11面。
  55. 第11回参議院議員(東京都)選挙公報
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  57. 神奈川新聞1963年4月12日朝刊7面
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  60. 「「石原みのべこそ泡沫!」都知事選を面白くしている13人のサムライ」『週刊文春 4月9日号』第17巻第15号、文芸春秋、1975年、115-116頁。
  61. 「「天皇の島に題す」あゝ我が水戸の二聯隊」『楯国 10月号』第131号、神州会、1985年、13-17頁。
  62. 朝日新聞京浜版1963年11月7日朝刊12版16面
  63. 読売新聞神奈川読売C版1965年6月11日朝刊12版16面
  64. 毎日新聞茨城版1962年6月21日朝刊12面
  65. 大川(DVD).
  66. 読売新聞東京本社1960年11月6日朝刊14版6面
  67. 神奈川新聞1963年4月3日朝刊1面
  68. 読売新聞東京本社1987年3月24日朝刊14版2面
  69. 読売新聞京浜読売版1965年6月29日朝刊14版16面
  70. 産経新聞横浜版1963年3月28日朝刊13版14面
  71. 朝日新聞東京版1960年11月5日朝刊12版12面
  72. 『公安調査資料 内外重要社会運動年譜』 12巻、公安調査庁、1971年、222-223頁。
  73. 毎日新聞都内中央版1968年6月14日朝刊16面
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  75. 朝日新聞東京本社1986年7月5日朝刊20面
  76. 高木正幸『右翼・活動と団体』土曜美術社、1989年、14頁。
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  81. 毎日新聞横浜版1965年6月16日朝刊16面
  82. 産経新聞横浜版1963年3月28日朝刊13版14面
  83. 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年、23,350頁。
  84. 荒原朴水『増補 大右翼史』大日本一誠会出版局、1974年、559-562頁。NDLJP:11924877/311
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  96. 水戸市史編さん近現代専門部会 編『水戸市史 下巻』 1巻、水戸市、1993年、436,542頁。
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  98. 『昭和大典記念 自治業界發達誌』東京日日通信社、1928年、695頁。
  99. 深作雄太郎 著、森田美比 編『ある茨城県農政史―農林技師・深作雄太郎日記―』昌平社、1980年、3,7,37,40頁。
  100. 『茨城人名録』いはらき新聞社、1939年、561頁。
  101. 深作哲太郎 著、深作初枝、深作律夫 編『深作哲太郎遺作遺稿集』深作初枝、1982年、9,11,401頁。
  102. FukasakuKjのツイート(1540568810344022019)
  103. 「フ之部」『人事興信録』 下(14版)、人事興信所、1943年、6頁。
  104. 『新民』第13巻第12号、新民会、1962年12月、47頁。
  105. 文部省大学学術局 編『専門別 大学研究者・研究題目総覧 人文科学編』日本学術振興会、1961年、281頁。
  106. maki.fukasakusawyer(2022年6月24日) - Facebook
  107. SawyerMakiのツイート(1545201798973165569)
  108. 福島伸享 (2022年7月5日). 神奈川県、深作ヘスス候補の応援”. 福島のぶゆきアーカイブ. 2022年7月5日閲覧。
  109. FukasakuKjのツイート(1544849713291497472)
  110. (上)岐路に立つ松下政経塾 減る政治家志望」『毎日新聞』毎日新聞社、2019年5月10日。2021年9月23日閲覧。
  111. 松下政経塾. 深作光輝ヘスス プロフィール”. 松下幸之助記念志財団. 2023年5月5日閲覧。

参考文献

  • 大川豊『日本インディーズ候補列伝』扶桑社、2007年7月6日。ISBN 978-4594053970。――1986年の参議院選挙における深作清次郎の政見放送を付属DVDに収録。

外部リンク

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