周峻
生涯
叔父の周瑜に国家創業の功績があったので、周峻も昇進して偏将軍に任命されて軍吏・兵士一千人を預かった。
嘉禾3年(234年)[1]5月、孫権が自ら合肥へ出陣するのに呼応して陸遜・諸葛瑾が襄陽を攻撃し、周峻もこれに従軍した。陸遜の孫権への使者が魏に捕縛され、機密が漏れたので陸遜は計略を使って襄陽から撤退した。白囲まで来たところで狩猟と称して駐留した。その実、将軍の張梁と周峻をして江夏の新市・安陸・石陽といった小県を急襲させた。特に石陽では市が賑わっており、呉軍の襲来に市民は慌てふためいて城門へ殺到したため城門が閉まらなかった。守兵は群がる民衆を斬ってやっと城門を閉ざした。殺したり捕らえたりした者の数は数千に及んだ[2]。陸遜は捕虜を釈放してやり、自兵らには狼藉を禁じて民衆の支持を得た[3]。
周峻が死ぬと子の周護に後任を任せるように全琮が上言したが、孫権は周護の性格と行いが陰険で禍を及ぼすとして、これを拒否している。
脚注
- 『三国志』呉主伝による。同書陸遜伝では236年につくる。
- この一連の騒動に対して裴松之は「折角うまく退却したのにどうしてわざわざ取るに足らない小県を襲って数千もの人々を殺したのか。その程度で魏は揺るがず、ただ民衆を惨たらしい目にあわせただけではないか。これだから孫権から三代も下らずに国は滅びたのだ」と痛烈に批判している。
- また裴松之が言うには「この所業は、林を薙ぎ倒して鳥の巣を奪ってからそのヒナを大事に育てるようなことだ。どうして小仁で大悪を帳消しにできようか」と批判している。すべての呉人は裴松之に批判されたが、史家が裴松之を厳しく批判している。
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