堀内宗平
堀内 宗平(ほりうち そうへい、1878年(明治11年)9月10日 - 1943年(昭和18年)6月13日)は、日本の海軍軍人(大佐)、実業家である。官位は従六位。
ほりうち そうへい 堀内 宗平 | |
|---|---|
| 生誕 |
1878年9月10日 |
| 死没 | 1943年6月13日(64歳没) |
| 出身校 | 海軍兵学校 |
| 職業 | 軍人、実業家 |
| 子供 | 堀内宗孝 |
| 親戚 |
堀内良平(実業家・政治家、兄) 堀内伝重(南米移民、弟) 堀内一雄(実業家・政治家、甥) |
来歴
生い立ち
1878年(明治11年)9月19日、山梨県東八代郡、のちの黒駒村(現:笛吹市)に、堀内藤右衛門の三男として生まれる。1892年(明治25年)、兄の堀内良平に連れられて上京[1]。1898年(明治31年)、海軍兵学校に入学(第29期)。
栄典
家族・親族
堀内良平の業績を顕彰した本である『富士を拓く』によると、「堀内家は甲斐源氏の祖である源清光にまで遡ると。清光の子、逸見光長の系譜が堀内を名乗るようになった」としている[16]。また同著には、鎌倉期の1282年(弘安5年)、病を得て湯治に向かうため身延山を下りた日蓮が堀内家に立ち寄ったとの記載もある[17]。
子の宗孝は早稲田大学業後、中島飛行機製作所に就職。第二次世界大戦勃発後は海軍予備学生に志願入隊し、ミンダナオ島ダバオに着任。1945年5月2日、敵の武装トラックの陣に抜刀の奇襲を行い戦死。正七位勲六等。最終階級は海軍大尉。ほか、子に宗忠。
脚注
注釈
- 仲人は小野金六夫婦[4]
- 前年のワシントン海軍軍縮条約による影響とも言われる
出典
- 富士を拓く 1994, p. 84-92.
- 富士を拓く 1994, pp. 124–125.
- 富士を拓く 1994, p. 148.
- 富士を拓く 1994, p. 149.
- 『官報』第1633号、大正7年1月15日。但し、この発令は伊勢水雷長を免じ第5駆逐隊司令へ転出のもの。
- 『官報』第2018号、大正10年12月2日。
- 富士を拓く 1994, p. 222.
- 富士を拓く 1994, p. 223.
- 『官報』第5929号「叙任及辞令」1903年4月11日。
- 『官報』第6355号「叙任及辞令」1904年9月3日。
- 『官報』第7028号「叙任及辞令」1906年12月1日。
- 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- 『官報』第1348号「叙任及辞令」1917年2月1日。
- “堀内宗平”. www6.plala.or.jp. 2022年3月31日閲覧。
- “堀内宗平”. 歴史が眠る多磨霊園. 2020年1月19日閲覧。
- 富士を拓く 1994, pp. 35–36.
- 富士を拓く 1994, pp. 38–44.
参考文献
- 塩田道夫『富士を拓く』堀内良平伝刊行委員会、1994年。 NCID BN11349951。
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