士会
士 会(し かい、生没年不詳)は、中国春秋時代の晋の武将、政治家。姓は祁、氏は士、もしくは封地名から随、范、諱は会、字は季、諡は武。随会、范武子とも呼ばれる。士蔿の孫。士缺(士成伯)の末子[1]。士燮(范文子)、士魴(彘共子)の父。
略歴
秦への亡命
士会は末子と言う立場上(字の季は末子を指す)、家を継げる立場に無かったが、紀元前632年の城濮の戦いに従軍し、その後に晋軍が帰還する時、文公に車右に指名される。
それから11年後の紀元前621年の襄公の死後に、正卿趙盾の命によって秦にいた公子雍を新たな晋君として迎える為に、卿の先蔑とともに秦に向かったが、士会達が秦にいる間に晋では襄公の子の夷皋を立てる動きが強くなり、士会達は急遽晋へと呼び戻され、趙盾も心変わりして夷皋を立てて霊公とした。
何も知らずに晋へとやってきた公子雍を趙盾は令狐にて攻撃し、士会はこれに怒って秦へと亡命した。そして秦康公に仕えたが、同じく晋から亡命してきた先蔑には一度も会わなかった。その後、士会は康公の軍事顧問となり、紀元前615年の河曲の戦役では晋の軍隊を次々と撃破する等の軍才を示した。
帰国、そして再仕官
翌紀元前614年、士会は彼の軍才に着目した郤缺の策略により晋へ連れ戻され、晋の大夫に取り立てられる。その際封地として随や范の地を与えられた事から、士会が立てた分家は范氏とも呼ばれるようになる。士会は度々、趙盾と対立している霊公の乱行を諌めたが、霊公はそれを聞き入れる事無く、紀元前607年に暗殺されてしまった。
脚注
- 『新唐書』表第十一より
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