大井オートレース場
大井オートレース場(おおいオートレースじょう)は、東京都品川区にかつて存在していたオートレース場である。
| 大井オートレース場 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 所在地 | 東京都品川区勝島二丁目 |
| 開設 | 1954年(昭和29年)11月27日 |
| 閉場 | 1973年(昭和48年)3月22日 |
| 所有者 | 東京都競馬株式会社 |
| 施行者 | 東京都 |
概要
大井競馬場のオープンから4年後の1954年(昭和29年)に誕生し11月27日に初開催された、東京都内唯一のオートレース場である。当初はコースを大井競馬場の内枠に併設する予定であった[1]が、大井競馬場の関係者がこれに反発したため断念せざるを得なくなった[2]。
用地の広さの都合上、新規にダートコースを備えたレース場を建設することが困難だったため[3]、やむなく舗装路面の1周500メートル走路を大井競馬場の北側隣接地へ新規に建設することとなった。結果的に、大井オートレース場は史上初の舗装路を備えた、当時7つ目のオートレース場として開業したのである[4]。
オープン当初こそ売り上げは振るわなかったものの、その立地条件とアクセスの良さ、そしてそれ以上に、ダートとは異なる舗装路独自の魅力で、徐々に人気を拡大していった。最盛期には「ダートの川口、舗装の大井」と呼ばれ、オートレースの双璧として認知されるまでに成長していった。
1965年には東京モノレール羽田線の大井競馬場前駅も開業し、来場者数はさらに向上した。
選手
上述した戸田茂司以外にも多くの選手が在籍していたが[6]、多くは大井廃止と同時に引退した。大井から伊勢崎に移籍した選手には土田一男(6期、引退)などがいる。
また、船橋と大井の二場に所属している選手も存在した。
特記事項
- 大井オートレース場の歴史自体は短いものだったが、オートレース界に与えた影響は大きかった。1967年に危険性の高い従来のダート走路を舗装路に改修する際には、大井オートレース場のコースがモデルとなった。幅員や曲率半径などに若干の差異があるものの、現在のオートレース場のバンクが1周500メートルのオーバルコースで統一されているのはこのためである。
- 開設当初はダート走路用の競走車を使用していた。しかし舗装路専用のタイヤは開発されておらず、やむなく同じインチ数のリヤカーのタイヤを流用していた。ただ、リヤカー用のタイヤは細く、剛性と耐久性が著しく低かったため、専用タイヤが開発されるとすぐに使用されなくなった。
- オートレース場閉鎖後、全天候型多目的ドーム球場を建設する計画が持ち上がったことがある。ロッテオリオンズオーナーだった永田雅一とスポーツニッポン社長の狩野近雄が中心となり、大洋ホエールズを誘致する目論見だった。だが、資金的に当てにしていた東京スタジアムの売却益が見込めなかったうえに、事務局長的役回りだった中村長芳が福岡野球のオーナーとして球団運営に専念したことで、構想は消滅した[7][8]。
脚注
- 「大井競馬場内に決まる」『日本経済新聞』昭和25年12月20日3面
- 旧船橋オートレース場は船橋競馬場のダートコースを併用していたが、馬場が荒れるなどの問題が頻発していた。
- 当時のダートコースは1周800メートルが基本形であった。大井ほどではないが用地の広さに制限があった旧飯塚オートレース場は、1周600メートルだった。
- 当時は船橋・川口・浜松・飯塚の他に、柳井オートレース場と甲子園オートレース場が存在した。
- 伊勢崎オートレース場の土地及び施設は東京都競馬株式会社が所有している。これは、伊勢崎が新規開設ではなく大井からの移転であったためである。
- 二輪競走の選手以外に、四輪競走の選手もいた。
- 坂井保之『波瀾興亡の球譜』(1995年、ベースボールマガジン社)pp.120-122
- なお、現実に国内初のドーム球場として1988年に開場した東京ドームは、後楽園競輪場跡地に建設された。
参考文献
日本小型自動車振興会『オートレース三十年史』(1981年)
外部リンク
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