宜蘭クレオール
宜蘭クレオール(ぎらんクレオール、中: 寒溪泰雅語)は、台湾北東部の宜蘭県のいくつかの村で先住民のアタヤル人によって使われている、日本統治時代の影響による日本語とアタヤル語の言語接触により生まれたクレオール言語である。
| 宜蘭クレオール 寒溪語、寒溪泰雅語など | |
|---|---|
| Yilan Creole / Hanxi / Kankei | |
| 話される国 | 台湾北東部 |
| 地域 |
|
| 話者数 | 不明(使用地域の総人口は約3000人) |
| 言語系統 |
アタヤル語を基層、日本語を上層に持つクレオール言語 |
| 公的地位 | |
| 公用語 | なし |
| 統制機関 |
|
| 言語コード | |
| ISO 639-2 |
map |
| ISO 639-3 |
ycr |
| Glottolog |
yila1234[1] |
宜蘭県南澳郷東岳村・金洋村・澳花村、大同郷寒渓村の4村で話され、日本語を上層言語(語彙供給言語)、アタヤル語(=タイヤル語)を基層言語とするが、どちらの言語とも異なる新しい別言語である。
このクレオールの存在は、真田・簡(2007)[2]によって、はじめて学界に報告された。その後、Chien and Sanada(2010)[3]で、使用地域にちなんで、「Yilan Creole(宜蘭クレオール)」と命名された。なお、この「宜蘭クレオール」に対して、地元ではさまざまな呼称が存在する。例えば、東岳村でnihongoやtang-ow no ke、tang-ow no hanasi、金洋村でnihongo、kinus no hanasi、博愛路的話、澳花村でnihongo、zibun no hanasi、寒渓村でnihongo やkangke no hanasi、kangke no keなどである。
宜蘭クレオールの話者数については正確な統計がない。しかし、4村の人口は2018年12月現在、合計3,285人である[4]が、村内部にも宜蘭クレオールを使用しない地区があること(例えば金洋村の金洋路)や宜蘭クレオールを話せない若年層がいることなどを考えると、宜蘭クレオールの話者数は多くても3,000人以下であると推定される。
歴史
1895年の下関条約に基づき、1945年まで台湾は日本の統治下に置かれた。
日本統治時代、アタヤル人とセデック人はともに「アタヤル族」とされていた。アタヤル語とセデック語は,同じくアタヤル語群に属してはいるが、完全に通じ合うものではなかった。そのため、完全な意思疎通ができないアタヤル人とセデック人は、コミュニケーションをとるために、移住後に設置された「教育所」で、あるいは日本人との接触のなかで身に付けた簡略な日本語を、互いのリンガフランカ(共通言語)として使い始めたのではないかと推測される。しかし、日本語がまだ完全に普及していなかったため、アタヤル語とセデック語の要素が混じったハイブリッドな言語が形成された。そして、その言語を第一言語とする世代が生まれ、その後、それがクレオールへと発展したのだと考えられる — 簡・真田2011[6]
地理
宜蘭クレオールは、宜蘭県の南澳郷東岳村(Tungyueh Village)・金洋村(Chingyang Village)・澳花村(Aohua Village)と大同郷寒渓村(Hanhsi Village)で主に使われている(図1〜3)。



書記体系
宜蘭クレオールの表記は、台湾で使われるタイヤル語のラテン文字による書記体系が援用されている。日本語の書籍や論文、メディアでは漢字と仮名で表現される場合もある。ただし、宜蘭クレオールの話者が日常生活においてこの書記体系を使うことはほとんどない。
音韻
子音
子音には/p, t, k, ’, c, b, s, z, x, g, h, m, n, ng, d, r, l/の17個が観察される。このうち/’,c, b, g,ng/ に対応する音声は、それぞれ[ʔ, ts, β, ɣ, ŋ]である。
ここには、周辺のアタヤル語C’uli’方言と同様、/q/(口蓋垂破裂音の[q])が認められない。また、日本語に存在する特殊な音素/R/(長音)や/Q/(促音)がほとんど認められない。
一方、/d/はアタヤル語には存在しない音素である。/d/(歯茎破裂音の[d])の所属語彙は、handay〈飯台→テーブル〉、dare〈だれ〉、denwa〈電話〉、daykong〈大根〉など、すべて日本語由来のものである。したがって、この音素は日本語の影響で生じたものと考えられる(真田2019)[7]。
語彙
語彙全般
基礎語彙における語種の比率は、東岳村の1964年生まれの男性を調査した結果では、次のようである(簡・真田2011)[6]。
- 日本語起源の語:約65%
- アタヤル語起源の語:約25%
- 中国語・閩南語起源の語:約10%
ただし、話者の属性や計数の仕方によって、この出現比率には異なりがある(Chien 2015[5],簡2018a[8])が、いずれにしても日本語起源の語彙が半数を超えていることに間違いはない。
なお、台北帝国大学土俗人種学研究室(移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一)(1935)[9]によると、1930年代における南澳地域の人口は1692人で、戸数の比率はアタヤル人85.7%、セデック人14.3%である。宜蘭クレオールにセデック語の影響がほとんど認められないのは、このようにセデック人がマイノリティであったことが関与していると考えられる。
形態論
派生語
宜蘭クレオールでは、-suruが動詞を作り出す接辞として生産的に用いられている。kusisuru〈梳かす〉、yumesuru〈夢を見る〉、bakusuru〈タバコを吸う〉のように名詞に付加して動詞化するのみならず、tangkisuru〈怒る〉、kiluxsuru〈温める〉など形容詞(アタヤル語では「静態動詞」とされる)に付いてそれを動詞化することもできる。
なお、-suruは日本語の「する」由来の形式である。日本語では、「する」は独立した意味を持つ動詞で、動名詞に付加して「運動する」「研究する」などのような複合動詞を作ることもできる。一方,宜蘭クレオールでは-suru は「する」という意味の動詞としては使われず、拘束形態素で、実質的な意味を持たない(Chien 2015[5],簡2018a[8])。
統語論
語順
アタヤル語の語順はVOSであるが、宜蘭クレオールは日本語と同様にSOVが基本である。
- (1)are asita biyak kutansu-ru.
3s 明日 豚 切る-NPST
‘あの人は明日、豚を殺す。’
- (2)wasi gohang tabe-n.
1s ご飯 食べる-NEG
‘私はご飯を食べない。’
- (3)ima wasi pila moca-nay.
今 1s 金 持つ-NEG
‘私は今、お金を持っていない。’
格表示
宜蘭クレオールでは、語順及び後置詞を格表示として用いている。具体的には、主語と直接目的語は語順、間接目的語とその他の項は5つの格助詞「ni, de, to, no, kara」によってマークされている。これらの格標識は上層言語である日本語由来のものであるが、そこには異なった用法が存在し、単純化への変化が認められる。また、niの意味用法の拡張なども見られ、独自な格表示のシステムが作り上げられている(Chien 2016)[12]。
- (4)wasi la’i ni pila ager-u
1s 子供 DAT 金 あげる-NPST
‘私は子供にお金をあげる。’
- (5)are hocyo de niku kir-u
3s 包丁 INS 肉 切る-NPST
‘あの人は包丁で肉を切る。’
- (6)wasi titi to ason-doru
1s 弟 COM 遊ぶ-CONT
‘私は弟と遊んでいる。’
- (7)Yumin no hayya
Yumin GEN 車
‘Yuminの車’
- (8)maki kara mikang to-ta
木 ABL みかん とる₋PST
‘木から蜜柑をとった。’
否定表現
宜蘭クレオールの否定辞には-nayと-ngがある。それぞれ次のように用いられている(簡・真田2011)[6]。
- (9) kyo no asa walaxsinay / *walaxsang. (今朝、雨が降らなかった。)
- (10)kino samuysinay / *samuysang. (昨日は寒くなかった。)
- (11)ima walaxsinay / *walaxsang. (今は雨が降っていない。)
- (12)ima samuysinay / *samuysang. (今は寒くない。)
- (13)kyo *walaxsinay / walaxsang rasye. (今日は雨が降らないだろう。)
- (14)asta *samuysinay / samuysang rasye. (明日は寒くないだろう。)
これらの用例には、
- -nay:-ng=「過去」「現在」(「既然」):「未来」(「未然」)
といった、使い分けに関する相補的分布が存在する。
宜蘭クレオールでは、基層言語であるアタヤル語の「既然法」「未然法」といった範疇のなかに上層言語(語彙供給言語)である日本語の否定辞「ナイ」と「ン」の2形式が取り込まれ、「発話以前(既然)の事態・行為」と「発話以後(未然)の事態・行為」を、それぞれ-nayと-ngによって弁別して描写するといった新しい体系化が出来上がっているのである。なお、-nayは日本語の標準語形「ナイ」由来、-ngは地域方言形「ン」由来である(簡・真田2011)[6]。
脚注
- Hammarström, Harald; Forkel, Robert; Haspelmath, Martin et al., eds (2016). “Yilan Creole Japanese”. Glottolog 2.7. Jena: Max Planck Institute for the Science of Human History
- 真田信治・簡月真(2007)「台湾アタヤル族における日本語クレオール」日本語学会2007年春季大会口頭発表.関西大学,5月26-27日.
- Chien, Yuehchen and Shinji Sanada (2010)Yilan Creole in Taiwan. Journal of Pidgin and Creole Languages, 25(2):350–357.
- http://hrs.e-land.gov.tw/
- Chien, Yuehchen(2015)The lexical system of Yilan Creole. In: Elizabeth Zeitoun, Stacy F. Teng and Joy J. Wu(eds.)New Advances in Formosan Linguistics, 513–532. Canberra: Asia-Pacific Linguistic.
- 簡月真・真田信治(2011)「台湾の宜蘭クレオールにおける否定辞―『ナイ』と『ン』の変容をめぐって―」『言語研究』140:73–87.
- 真田信治(2019)『アジア太平洋の日本語』東京:ひつじ書房.
- 簡月真(2018a)「宜蘭クレオールの語彙の様相―東岳村の場合―」『Language and Linguistics in Oceania』10: 67–87.
- 台北帝国大学土俗人種学研究室(移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一)(1935).
- 簡月真(2018b)「日本語を上層とする宜蘭クレオールの人称代名詞」『日本語の研究』14(4): 31–47.
- Qiu, P. (2015). A preliminary investigation of Yilan Creole in Taiwan: discussing predicate position in Yilan Creole (Unpublished master's thesis). University of Alberta. Retrieved March 09, 2017, from https://era.library.ualberta.ca/files/02870z43h/Qiu_Peng_201502_MA.pdf
- Chien, Yuehchen(2016)「Yilan Creole case marking」『国立国語研究所論集』10:1–17.