岡吉正

岡 吉正(おか よしまさ、生没年不詳)は、紀伊国土豪[1]雑賀衆の一人。仮名は太郎次郎[2]

略歴

岡氏は、雑賀庄岡に浄土真宗の道場である岡道場(現在の念誓寺[3])を運営し、天正期の道場主・岡了順は、宮本(湊)高秀・松江定久・嶋本(狐島)吉次とともに雑賀門徒の年寄衆を務めた[4]。また、了順は雑賀御坊(鷺森御坊[5])の代表者の立場にあり[6]、寺伝などで岡の城主とされている[7]

元亀元年(1570年)に始まる織田信長本願寺の戦い(石山合戦)では、岡氏ら雑賀衆は本願寺の防衛に加わり[8]、天正8年(1580年)閏3月5日、朝廷の仲介により、信長と本願寺の和睦が成立した[9]

これにともなって大坂勅使が下向してきたが、雑賀衆の中でそれに狼藉を働く者が現れたため、雑賀の年寄衆4人と鈴木重秀が連名で下間頼廉宛てに誓紙を提出した[10]。この時の年寄衆には、了順に代わり吉正が名を連ねている[11][10]

本願寺法主顕如が和睦に同意した後も顕如の子・教如はそれに従わず、籠城継続に同心するよう雑賀の年寄衆に書状を送っている[12]。この宛所として、岡氏からは了順と吉正2人の名が記されていた[13][14]。また、この書状には「猶左衛門大夫(嶋本吉次)、太郎次郎(岡吉正)可演説候」とあり、嶋本吉次と吉正が既に教如に賛同していたことが分かる[14]。一方、年寄衆の内、宮本高秀と松江定久は顕如を支持してこれには応えず、教如は以後、岡了順・吉正・嶋本吉次に対して大坂に人数を送るよう求めている[15]。最終的に雑賀門徒は講和受け入れでまとまり、同年4月8日、吉正や嶋本吉次を含む11人の雑賀衆が「向後弥可為御門跡様次第候」とする誓紙を本願寺年寄衆に提出した[16][17]。この後、翌4月9日に顕如が大坂を退出し、8月2日に教如も大坂を退去した[18]

天正13年(1583年)3月、羽柴秀吉紀州攻めを行っているが、羽柴軍が雑賀に入る前に岡の衆が湊の衆へと鉄砲を撃ちかけ、これにより雑賀は自滅したという(「宇野主水日記」)[19]。岡の衆を秀吉方に引き込んだのは有田郡の白樫氏とみられる(「白樫文書」)[20]

脚注

  1. 鈴木真哉『紀州雑賀衆 鈴木一族』新人物往来社、1984年、65-66頁。全国書誌番号:84054303
  2. 和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110; 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 991, 993.
  3. 武内 2018, p. 282.
  4. 武内 2018, pp. 194–195, 281, 290–291.
  5. 武内 2018, pp. 147–149.
  6. 武内 2018, pp. 134, 289–291.
  7. 武内 2018, p. 283.
  8. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 970–988; 鈴木 2004, pp. 92–114.
  9. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 991–994.
  10. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 992–993.
  11. 天正8年3月20日付雑賀衆誓紙写 (和歌山市史編纂委員会 1977, p. 1110)
  12. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 994–995; 武内 2018, p. 197.
  13. (天正8年)閏3月13日付本願寺教如書状 (和歌山市史編纂委員会 1977, pp. 1111–1112)
  14. 武内 2018, p. 197.
  15. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 995; 武内 2018, p. 197.
  16. 天正8年4月8日付雑賀衆起請文 (和歌山市史編纂委員会 1977, pp. 1116–1117)
  17. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 996; 武内 2018, p. 198.
  18. 和歌山市史編纂委員会 1991, pp. 997, 999; 鈴木 2004, p. 127.
  19. 和歌山市史編纂委員会 1991, p. 1029; 鈴木 2004, p. 205.
  20. 鈴木 2004, p. 205.

参考文献

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