岩波律子

岩波 律子(いわなみ りつこ、1950年10月13日 - )は、東京都出身の映画人(シネアスト)。1990年(平成2年)から2022年(令和4年)7月29日の閉館まで、東京都千代田区神田神保町の映画館「岩波ホール」の支配人を務めた。

いわなみ りつこ

岩波 律子
生誕 (1950-10-13) 1950年10月13日(73歳)
東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 学習院大学(修士)
フランス国立東洋言語文化学院(修士)
著名な実績 岩波ホール支配人
父:岩波雄二郎岩波書店社長・会長)
母:岩波淳子(岩波ホール支配人)
親戚 祖父:岩波茂雄岩波書店創業者)
叔母:高野悦子 (映画運動家)(岩波ホール総支配人)

経歴

青年期

岩波ホールがある岩波神保町ビル

1950年(昭和25年)、岩波律子は東京都に生まれた[1][2]。岩波家は岩波書店の創業者の家系であり、父親は岩波書店社長の岩波雄二郎である[3][2]。1975年(昭和50年)には学習院大学大学院仏文科修士課程を修了。1976年(昭和51年)から1978年(昭和53年)までフランスパリに留学した[4]。パリ商工会議所が設置した高等秘書養成センター(CPSS、現・パリ・ノバンンシア経営大学院)を卒業し、フランス国立東洋言語文化学院日本部門修士課程を修了した[2]。東洋言語文化学院では「日本における婦人雑誌」というテーマのフランス語論文を執筆している[5]

1977年(昭和52年)5月には、神田神保町岩波ホールでエキプ・ド・シネマ運動を行っていた叔母の高野悦子が、初めてカンヌ国際映画祭に正式参加した[4]。岩波も高野に誘われてカンヌを訪れており、このことが映画の世界に足を踏み入れるきっかけとなった[4]。留学先のパリでは多忙だったため、映画館で映画を観ることはあまりなかったという[5]

岩波ホール入社後

岩波が忘れがたい映画監督に挙げるセンベーヌ

岩波は1978年(昭和53年)に日本に帰国すると、高野が支配人を務める岩波ホールでアルバイトを務めた後、1979年(昭和54年)春に岩波ホールの正式な社員となった[4]。当時について岩波は「私がフランスに留学した後、ぶらぶらしていたら、高野悦子からちょっと来ないといわれて入社した」と語っている[6]。岩波ホールは父の岩波雄二郎が自費で建てたビルに開館させたホールである[7]

まずは外国部兼プログラム編集の仕事を任され、上映作品のパンフレットや機関誌『友 Iwanami Hall』の編集、他国との折衝や訪日外国人の接待などを担当した[4]。岩波ホールが独自に配給する作品では仕事が多く、『エミタイ』(1984年)を監督したセンベーヌ・ウスマンが訪日した際には通訳も担当し[4]日光の社寺の観光案内をしたこともあった[8]。岩波が岩波ホールに入社した頃、社員の構成は正社員が10人であり、嘱託社員やアルバイトを含めても30人という小規模な組織だった[4]

岩波ホール支配人

その後は宣伝部と編集部を経て[2]、1990年(平成2年)には岩波ホールの支配人に就任した[9]。岩波は高野らとともにエキプ・ド・シネマ運動を推進し、『宋家の三姉妹』(1997年)や『山の郵便配達』(1999年)などの名作の上映に携わった[3]。エキプ・ド・シネマ運動は、サタジット・レイイングマール・ベルイマンアンジェイ・ワイダエルマンノ・オルミマノエル・ド・オリヴェイラアラン・レネ黒木和雄羽田澄子などの監督の発掘にも貢献した[10]

2013年(平成25年)2月9日に高野が死去した際には喪主を務めた[11][12]。高野の死後には高野の仕事を引き継いだが、高野が背負っていた「総支配人」という肩書ではなく、それまでの「支配人」という肩書を継続している。2014年(平成26年)にポーランドクラクフ日本美術技術博物館「マンガ」館で高野悦子展が開催された際には、岩波が日本美術技術博物館を訪れてアンジェイ・ワイダ監督と対面した[13]。日本美術技術博物館はワイダ監督の発案で開館した博物館であり、建設に際して募金活動の窓口を引き受けたのが高野と岩波ホールだった。

2018年(平成30年)に岩波が受けたインタビューでは、とりわけ忘れがたい映画監督としてセンベーヌ・ウスマン監督を挙げており、「気難しいコワイおじさまで。といっても、差別に厳しい、信念の方」「監督の作品には女性への信頼と尊敬があふれています。その背景に、お母様への深い尊敬の思いがおありだった」と評している[14]

岩波ホールの閉館

2020年(令和2年)以後には新型コロナウイルス感染症の世界的流行が起こり、岩波ホールは長期休館を余儀なくされるなどして経営状態が悪化、2022年(令和4年)7月29日をもって閉館した[15]。同年1月に閉館を発表してからは、映画上映と並行し、種々の閉館業務に奔走。7月29日の最終上映回の前には、自ら満員の客席に向かって舞台挨拶をした[15]。岩波ホールのパンフレット、ポスター、広報誌『友』などの貴重な資料は、国立映画アーカイブ図書室、このほか東京や地方の図書館や資料館に収蔵される[16]。2023年3月、岩波と劇場スタッフに対し、日本映画ペンクラブ賞が贈られた[17]

家族

訳書

  • ポール・コックス(著)、岩波律子(訳)『カメラの旅人 ある映画人の思索と回想』北沢図書出版、2006年
    • ポール・コックスはオーストラリア出身の映画監督であり、1979年(昭和54年)には岩波ホールでコックスの代表作『ある老女の物語』をロングラン上映している[18]

脚注

  1. 岩波ホール支配人 岩波律子さん 劇場で見る映画は心と体に染みます」『毎日新聞』2019年4月7日
  2. 浜さん家のリビングルーム 岩波律子さん(岩波ホール 支配人) 文化放送 浜美枝のいつかあなたと、2018年2月4日
  3. 「『岩波ホール』創立50周年に 岩波律子さん」『毎日新聞』2018年1月13日
  4. 『シネ・フロント』1996年2月号、p. 48
  5. 『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』第4号、p.80
  6. 『キネマ旬報』2018年2月号、p. 242
  7. 『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』第4号、p.79
  8. 『キネマ旬報』2018年2月号、p. 244
  9. 『シネ・フロント』1996年2月号、p. 51
  10. 『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』第4号、p.81
  11. 高野悦子さん死去 岩波ホール総支配人、名画発掘」『日本経済新聞』2013年2月14日
  12. 「訃報:高野悦子さん 83歳 岩波ホール総支配人」『毎日新聞』2013年2月14日
  13. 大竹洋子 高野悦子さんと共に Gallery A4
  14. 『女性のひろば』2018年8月号、p. 103
  15. “拍手に包まれた最終上映 ミニシアターの先駆け「岩波ホール」が閉館”. 朝日新聞デジタル. (2022年7月29日). https://www.asahi.com/articles/ASQ7Y7GGKQ7XUCVL016.html 2022年7月30日閲覧。
  16. “岩波ホール閉館で54年の歴史に幕 支配人のコメントが発表”. シネマトゥディ. (2022年7月28日). https://www.cinematoday.jp/news/N0131525 2022年7月30日閲覧。
  17. 「PLAN 75」早川千絵監督 「日本映画ペンクラブ賞」邦画ベスト1に選ばれ「やっぱり1位はうれしい」」『スポーツ報知』、2023年3月15日。2023年6月23日閲覧。
  18. カメラの旅人 ある映画人の思索と回想 紀伊国屋書店

参考文献

  • 「映画を育てる最前線の人びと 11 岩波律子」『シネ・フロント』シネ・フロント社、1996年2月号、第21巻2号、pp. 48-51、doi:10.11501/7955658
  • 「Interview 岩波律子 支配人」『キネマ旬報』2018年2月号、第1771号、pp. 242-246
  • 「インタビュー 岩波律子 高野悦子と私と岩波ホールの50年」『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』2017年、第4号、pp.78-81
  • 岩波律子「岩波ホール開設50周年 スクリーンの力を信じて」『女性のひろば』2018年8月号、第474号、pp. 102-105

外部リンク

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